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1991年7月

イタリア就職記 (46 最終回)

P工房で働き続けるのはあきらめましたが、僕のなかでもう少しレースの本場で仕事をしたい希望がりましたので、他の工房もあたるつもりでしたが、出発に前にひいた肺炎一歩手前の風邪に、滞在中もずっと悩まさせられいたので、とにかく一度日本へ帰ることに決めました。
そうして、年末も押し迫った頃、成田におりたちました。

最初にも書きましたが、今回のイタリア就職は、最初にイタリアありきではなく、自分の仕事が希望の環境でできるとこ、でイタリアになったのです。
これが、アフリカとかメキシコとかでしたら、きっとそちらに行っていたと思います。
ただ、いってみてイタリアでよかったと思います。

たしかに約束がルーズであったり、こねがなければ何も出来なかったり、信号は無視、2重3重駐車は当たり前だけど、人々が陽気ですごくフレンドリーな感じをうけました。
僕が居たのは北イタリアで、南のほうはしりませんが、ほとんど人種偏見を感じることなく過ごせました。
また、日本のレースバイク界にありがちなイタリア製品至上主義を、少しでも打ち負かせたらという思いもありました。

イタリアのD社のバイクはなんか加速がいいだよね、とか、C社のバイクは疲れないしよく進むとか、イタリア製ということだけで、なにか特別違うような神がかり的な話になってしまう。

日本の自転車作りだって、すてたもんじゃないんだよ、ということを、イタリアでフレームをつくることにより、日本へアピールしたいという思いがありました。
自分の目標に対して100%は達成出来ませんでしたが、この後の仕事の肥やしにはたっぷりとなったと思います。

今回でこのイタリア就職記は最終回となります。
おつき合いただみなさま、どうもありがとうございました。

イタリア就職記 (45)

2年に一度の輪界のお祭り、ミラノショーが終わりました。
イタリア行きを決めて行動をおこしてから丸一年、僕も目標のひつとに到達した事を感じました。

P工房との契約はとりあえずこのミラノショーまでなので、この先のことを決めなければなりません。
自分としては、もちろんこのままP工房で働く事を望んでいました。
3ヶ月間という短い期間でしたが、ボクの能力と人間性は十分につたえられたという自信はありました。
そうしてその旨をP氏につたえて、一切を彼の判断に委ねました。

そして、クリスマスツリーに灯がともる頃、P氏の自宅に夕食を招かれた時、彼が僕に言いました,
”Pazienza"(がまんしろよ)
うっすらと涙目で。

”我慢”とは、イタリア経済、イタリア輪界がもう少し景気がよくなるまで、イタリアで働くのは待て、と言うことでした。

3ヶ月間彼と常に行動を一緒にして、P工房、イタリア輪界の裏側をみてきた自分には、彼の言う意味が、分かりすぎるくらい分かったので、ごねれば、いくらでもごねられたでしょうが、
”じゃあ、またくるよ”
としかいえませんでした。

折しも91年というのはイタリア経済始まって以来の不景気だったようです。

イタリア就職記 (44)

ミラノショーでのドジ話をひとつ。

ボクがブースに立っている時、日本からの知人がやってきて、彼がショーを見て回っている間、彼の荷物(ディパック)をあずかることになりました。
イタリアはこそ泥が多いとさんざんいわれていたので、ぼくなりにブースの奥の方へ荷物をおいたつもりだったのですが。

しばらくして、フッと荷物をみると、ないではないか!
彼が帰ってきた様子もないし、これはやられたかと思い、思い返してみると、少し前に、何語を喋っているか分からない人にはなしかけられて、ボクが対応している間に、別の奴が持ち去ったらしい、なんてこった。

急いで彼を構内放送で呼び戻し、あやまると、なんとその荷物にはパスポートが入っていたとのこと。
それからが大変で、警察に被害届をだしにいって、日本大使館へパスポートの再発行を依頼しにいったり、と。

幸いにして、バックはすぐに会場内のゴミ箱からみつかりました。
とられてものも、現金とパスポートだけだったので、完全にプロの仕業のようでした。
後日談がありまして、このパスポート、数年後に東南アジアのとんでもないところで偽造パスポートとして、みつかりました。

ご本人にはホントに申し訳ないことをしたと思いましたが、また、別な意味で貴重な体験をしました。

イタリア就職記 (43)

ミラノショーでの一コマです。
P工房の一番職人と営業マンと通訳の女性です。
ミラノショーは、ヨーロッパを中心に世界中からバイヤーが集まるので、各国語ができる通訳を雇います。

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各国語ができる通訳を雇います。
ボクがブースにたっていた時、前を通る人々がみな同じように見えてしまい、ドイツ人やらオランダ人やらさっぱり分かりませんでした。
そこで、同僚にどうやって見分けるの?ときいてみたら、
身なり(ファッション)で見分けるそうです。
ドイツ人はこんな感じ、オランダ人はこんな感じと、おそわって、その通りみているとなんとなくわかるような、気がしてきました。
 
そう言えば、彼らから見れば、ボクら東洋人は、中国人か韓国人か日本人か、区別はできないのと同じなんでしょうね。
 

イタリア就職記 (42)

さて、ミラノショーです。

期間はたしか3日間くらいだったと記憶します。
ボクもP工房のブースにたって売り込みをやりました。
P氏は、ボクへのプレゼントだと言って、ボクの作ったカーボン&クロモリロードとMTBを、ブースの正面に展示してくれました。
当時は、カーボン接着フレームは珍しく、それなりに人の目は引いてました。
(ショー後に、ビチスポルトという専門誌に取り上げられていました)

当時ボクの知る範囲では、日本人の職人がつくったものが、ミラノショーに出展したといいうことは聞いたことがなかったこと、イタリアの職人がボクの作ったものを認めて、自らのブースのトップへ展示してくれたこと、に関して心から満足しました。

イタリア就職記 (41)

すみません、今日は時間がないので、前回とはなんの脈絡もないお話を。

ボクのイタリア滞在で一番記憶にのこったワンショットです。
工房で仕事をしていて、フッと窓をみると、あまりにも綺麗な夕陽が。
おもわず窓にかけより、夕陽をみながら思いっきり深呼吸をしたら、自分は今イタリアで仕事をしているんだな、という思いがしみじみと湧いてきたこと。

イタリア就職記 (40)

こうして、ミラノショーへ出すべきモノができあがり、ボクもP工房のスタッフの一員として、11月のミラノショーへ参加しました。

ミラノショーは当時は二年に一回(現在は毎年)ミラノの国際展示場で開かれる、自転車とモーターバイクの展示会です。
各メーカーは、このショーに向けて新製品を発表してきます。
そして、バイヤーも国内外から多数集まり、翌年に向けての商談が開かれる場になっています。

ボクも、ブースの設営作業から手伝いましたが、他のスタッフも普段とはちょっと違って興奮気味で、お祭りのような雰囲気でした。
実際に、同業各社が一斉に顔を合わせるので、ビジネス会場の裏では、旧知の知り合いにあっては、楽しそうに話をしてました。

この後日本でのサイクルショーにも参加しましたが、雰囲気はそっくりでした。

イタリア就職記 (39)

こうしてボクが作ったフレームに、P氏が最終のカラーリングデザインをしました。
P氏のこういう感性はほんとにすごいと思いました。
つくったものは日本にいた時とかわらないのですが、仕上がってみると、やはり似て非なるモノという雰囲気をかもし出します。

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イタリアはデザインの国とよくいわれますが、
イタリアで生活していて、その根元の一部かなと
おもうところを自分なりに感じました。
街をあるいていると、目に入ってくる建物の線が、
丸であったり、斜めであったり、三角であったりと、
色々な線が飛び込んできます。
日本では、殆ど四角いたてものばりですよね。
(昔は違ったようですが)
この、色々な線を小さい頃からみて育ってくるれば、
どういう線の組み合わせがきれいか、
ということが自然と身についてくるじゃないでしょうかね。

ボクなどは、小さい頃から、縦か横の線しか見て育っていないですから、曲線をつかったものイメージとか思い浮かべにくいです。

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以前に書いたことがあるのですが、イタリアの23・4歳くらいの若い男の子とはなしていて、東京はどんな街かという話題になったとき、
彼は、”東京って美しい”ってボクにきいてきました。
聞かれてボクは、ハッとしました。
いままで、東京は電気製品が安いか、
とか便利かとかきかれたことはありますが、美しいか、
ときかれたことは一度もなかったですから。
そして、自分自身で街を美しいか美しくないかを考えたこともなかったです。
彼はミラノを美しい街だと自慢していました。

街が、美しいか、美しくないかという判断をする、イタリアの人がいかにデザインにこだわるかを垣間見た気がしました。

イタリア就職記 (38)

P氏とはしょっちゅう衝突していましたが、仕事上のことですから、お互いに根を持つことはなかったです。

いいか悪いか、イタリアにいる間、かなり彼と一緒に居る時間がありました。
仕事はもちろん、プライベートでも、一人のボクを不憫と思うらしく、いろいろ誘ってくれました。
だから、彼とは仕事以外こと、人生観などもよく話しました。
イタリアの職人気質や一般的な生活感を、学ぶのにものすごく濃厚な時が過ごせたと思ってます。

さて、いよいよミラノショー向けのロードレーサーの製作です。
ラグの形状や細部の工作はP氏のデザインをとりいれました。
今までやったことのない、ラグに穴をあけてブレーキワイヤーを通す加工など、ボク的には機能的にお勧めできないので納得できなかったですが、ショーモデルということもあり、P氏のいうとおりにつくりました。

イタリア就職記 (37)

ハンマーを投げる職人P氏についてかきますね。

彼は若い頃プロレーサーを目指して、町のクラブに入り毎日レースに明け暮れていたそうです。
その後は、働きながらデザインの夜間学校に通い、とにかくデザイナーになりたかったそうです。
レースをやっていた関係から、自転車のデザイン製作に興味を持ち、地元のビルダーに弟子入りして、メジャーブランドとの共同製作などを経て独立したそうです。

かなり苦労したらしく、ボクに対して、ことある事に、働かなければメシは食えないよ、と常々話していました。