クマさんのバイク専科

ここんとこ、いいライドができているじゃん!

あの〜!、僕、こう見えても湘南ジジイです。横須賀市の久里浜出身で、久里浜幼稚園、明浜小学校出身で、国鉄横須賀線の久里浜駅から1分の所の官舎に住んでいました。初めて自転車に乗って転ぶことなく平作川の土手を、ブレーキを知らなかったので止まれずに数km走ってしまいました。初めてのサイクリングは京浜急行沿いの尻こすり坂を野比海岸経由で津久井浜を往復するコースでした。初めての焼肉屋さんは、京浜急行の久里浜駅近くの土手下にあったお店でした。お肉は滅多に食べられない高級品でしたから、ロースのタレとかハツ焼きは美味しかったな〜。だから「じゃん」なんですね。

 

高校時代の3年間は勉強する場所だったことを忘れて、お正月の花園大会の優勝を目指してラグビーに集中していました。授業中は前日の練習疲れから回復するための睡眠学習か、美大に進学したいと思っていたので、スケッチブックを広げて、鉛筆のデッサンや、木炭によるフロッキーに勤しんでいて、描くことに夢中になっていて、背後から接近してくるグラマーや、さっきまで稽古着姿で竹刀を正門で振っていた古文の先生に気づかず、上段から振り下ろす名簿の硬い表紙の角の痛かったこと。なぜかラグビー部員はこの先生ロックオンされて攻撃のターゲットになっていました。

 

柔道、剣道、フェンシング、ラグビー、夏の遠泳が必須という、体育会系の大学一貫の高校で、朝の正門は8時半の遅刻の時間になると、体育教官室のメンバーと、朝練を終えたばかりの剣道着姿の生活指導の教官が、門の入り口を狭くして、仁王立ちで待ち構えています。竹刀で頭を小突いたり、反抗的で生意気な態度をとると、平手打ちや膝蹴りがビシバシ入ったりという、普通に体罰を加えているような学校でした。だから、授業中の居眠りやアルバイトに対する懲罰も名簿で殴るぐらいは当たり前、今でもあの痛みと、僕にとっての受験勉強をほっといてくれたらいいのにという思いは忘れませんね。

 

当時のラグビー部の練習は8時間と長丁場でした。朝練が6時から2時間、昼休みが30分から1時間の筋トレルームでのルーティーン、3時からは午後練でナイター設備と真っ白なラグビーボールの大活躍が普通でした。最初の頃はラグビーのルールもボールの投げ方もキックも、ポジションも、アタックやディフェンスのパターンなども、基本プレーを習うので日体大出身のラグビー経験のある教官や2年や3年の先輩の指導に大人しく従っていました。

 

でも、1年性の後期になると、試合のない時期のトレーニングパターン、週末の試合のある週のルーティンに、試合を経験し始めてリアルさを感じないので、こんなパターンの練習でいいのかと、疑問を感じ始めました。きっと教官たちが昔日体大のラグビー部で経験した練習内容だったのでしょう。試合で勝てない、目の前のプレーに対応できない原因だと思いました。アタックディフェンスも馴れ合いで追い詰めやタックルやモールやラックの、ボールの奪い合いも甘いし、タックルもマシンだけじゃ、試合中の生身の選手はそこに立っていてはくれないので、実践的じゃないな〜と思いました。

 

早稲田大学普段はとか教育大学とかの合同練習も菅平で経験させてもらいましたが、普段の練習はどうやっているんだろうと思って、東京都予選で当たるライバル高校のチームの練習とか、有力な大学チームはどんな練習をしているのか、10日くらい練習をサボって、各高校や大学のグランドへ見学に行きました。教官に呼び出されたので、こりゃ殴られるなと思ったので、各校のトレーニング内容のメモを見せて、タックル、アタックディフェンス、スクラム、モールやラック、パスプレー、ハイパントを使う戦術、ラインアウトなど、効果的なトレーニング方法をピックアップして、大学時代のトレーニング経験の練習内容を変えるように教官を説得しました。

 

言い出しっぺだし、効果がありそうだったので、積極的に練習するようになって、1年の後期からレギュラーに選抜されて、リコンディショニング理論も勉強して、2週間前から取り組んで勝手にトレーニング量を絞ってサボって、食事もカーボローディングして試合当日は暴れていました。海外のラグビー強国のでかいジュニア選手達と試合する機会に恵まれましたが、コンタクトスポーツでこの体格と筋力の差は埋められないと感じてしまい、ラグビーを諦めて、毎日50kmロードで通学していたので、自転車競技でもやってみるかと、大宮競輪場や西武園競輪場へ通って、ピストへ取り組むようになりました。19歳の時に1000mと200mの自己ベストを出しています。

 

美術学校を卒業して、デザイン事務所で働きながら、サイスポ、山渓、ナンバー、ランナーズ、学研、マガジンハウス、小学館などでフリーランスライターとして働きながら、26歳の時に19歳の時の自己ベストを更新しようと、一緒に働いていた小林徹夫クンと、新木場で400mの0発進のもがき10往復のレジスタンストレーニングを始めました。負けたくないので、1本もがいて走り終わると、吐くは、首や背筋や脚がつって倒れるはのひどい有様でした。

 

おかげでスタートはスムーズで速くなったし、耐乳酸性はみるみる向上して行きました。トップスピードも67kmくらいまで上がり、到達時間も短くなりました。そんな乳酸まみれで筋肉痛の疲労を引きずって八丁堀の編集部へ帰って、椅子に座って原稿書きに戻って、暗くなるのを待って、葛西へ向かいます。浄水場の裏通りへ夜8時に集まってくるJCRCのトップカテゴリーの仲間達との、2時間から4時間の葛西臨海公園周辺のクリテリウムという、超ハードなトレーニングを再開しました。

 

走り終わると腹ペコで近くのロイホで深夜の夕飯を食べて解散です。葛西から首都高に乗って高島平へ出て家に帰って風呂に浸かってバタンキューです。1年くらいで自己ベストを更新できて、それ以来ハードなトレーニングは止めました。運動生理学の教官達に、日本人選手の筋パワーのピークは27歳前後に集中していると聞いていました。フランス車連のドクターやコーチは、経験の引き出しが必要なロードレースでは、30歳くらいから34歳くらいがベテランライダーとして、レースの流れを読んで、チームの動きをコントロールすることがあるという。僕は26歳で自転車競技を諦めて、レースを観戦したり、走らせる側になろうと思いました。

 

ひょんなことから、1990年の日本での世界線のロードレースの選手強化のために、UCIの公式プロチームをマネージメントスタッフとして働き、イタリア、オーストリア、フランス、ドイツのロードレースやタクリテリウムに日本人選手を走らせることになり、4年間夢中で過ごし、その間、自分ではほとんど自転車に乗れませんでした。日本人選手がツールドフランスに出場できるプロチームに、実力を認められてペイライダーとして加入して走ることなんて考えられない時代でした。日本人選手でプロチームに所属した選手は結構いましたが、フランスやイタリアの選手がたどるプロチームへの階段を実力で駆け上がって、日本人選手でペイライダーになったのは、当時は2選手くらいです。

 

ヨーロッパでのレース活動から解放されて、自分の時間を持てるようになって、やっと自転車に乗ろうと走り始めると、想像以上に4年間のブランクは体を錆びつかせていました。坂を上れない、長い距離を走れない。そうか、現役選手と違わないギヤ比とか無理なんだな、サドルとハンドルの大きな落差とか、無理なことは無理と、当時のロードレーサーの常識を打ち破るコンフォートバイクが必要なことに気づきました。コンパクトドライブクランクや、ワイドなギヤ比で、峠道をクランクをくるくる回して上り切る達成感を実現したいと、雑誌の企画も考えました。ロードレーサーの走り方も、レースで速く走るだけでなく、ツーリングもロングライドも軽快でいいんじゃないかと思いました。体力に合わせてそれぞれの無理のないスタンスで走ればいいんじゃない。

 

目を三角にしてスピードを極めたいとか、その日の全パワーを発揮して、乳酸や活性酸素まみれになって、クタクタになった達成感が大好きとか、それで満足するいうライダーからすれば、とんでもなくゆるいポタリング的なマジカルミステリーツアーをしています。先々週のミドルコースの大関いちご、柿岡の中華料理屋さんでランチを食べて、ギター館の丘を越えるコースもたのしかったですし、今週のつくばの旧市役所、谷田部、牛久沼、谷田部のデローザが飾られているイタリアンでランチを食べた周回コースも、楽しかったです。

 

真夏に日陰を求めて走るコースでした。日陰は寒かったですけど、日差しが指すと気持ちよかったです。どんぐりや丸いクヌギ、落ち葉で滑ったりしてスリル満点の、横すら系バイク化した感じで走りました。そうそう、ここの所の嵐で流れ出た土が舗装路を覆っているところもありました。ちょうどタイムの新車をシェイクダウンした人がいて、サイズも大きくかっこよかった〜。アクティブフォークにディスクブレーキ付きで、スロバキア生産モデルでした。

 

今週末の7日の土曜日は、朝10時に桜運動公園の野球場駐車場っへ集合のマジカルミステリーツアーの後、6時から中華料理屋さんの李厨房での忘年会となります。8時の日曜日は9時集合のショップ主催のSRM兼マジカルミステリーツアーがあります。そうだ、5月の佐渡ロングライドのエントリーが始まりましたよ。サトイモさんやKさんやオリーブ旦那さんやOくんの210kmはA2にエントリーです。申し込みは早めがいいですね。僕とオリーブさんは完走を目指して100kmで、Aさんは130kmですね。フェリーの往復のチケットも手配してください。宿の部屋を確保するので、エントリーしたらお知らせください。ではでは。