クマさんのバイク専科

マリオ・ロッシンがいいね!

幸いなことに、僕はイタリアのフレーム工房が花盛りだった頃にイタリアの工房に行って、フレームをオーダーすることができたし、紹介者がいて、フランスのルネ・エルスとかアレックス•サンジェ、ジェミニにも行って創立者に会えている。

 

日本の輸入代理店に紹介してもらったり、イタリア在住の知り合いにコンタクトしてもらって、訪問の日を設定してもらった。パッソーニ、ロッシン、ジャンニモッタ、マジー、チネリ、デ・ローザ、チ・クワトロ、コルナゴ、ビアンキのレパルトコルサ、フレームチューブメーカーのコロンブス、ビットーレジャンニなど、色々なファクトリーを訪ね歩いた。

 

たまたま乗ったタクシーの運転手も、住所のメモを渡すとすぐにわかってくれて親切に訪問先へ案内してくれた。大変だったのは紹介されて雇ったトランスレーターが、自転車に関して全くの素人だったのだ。こっちが解説しないと専門的な話が進まないのだ。

 

訪問した中で昔のコルナゴの一番職人がピカリと光っていた。コロンブスの薄いチューブも躊躇なくプロパンガスバーナーで真っ赤に温めてラグ付きでロー付け溶接していた。誰だか聞き取れなかったがプロ選手用のフレームだという。

 

当時のコルナゴの年間生産台数は5000台とエルネストは言っていた。もちろんスチールの溶接フレームがメインで、カーボンや、軍事用のチタン合金製のダウンチューブを2本にしたフレームを試作していると見せてくれた。

 

カーボン&アルミラグとの接着フレームはイタリア国内生産、ティグ溶接で組み上げるチタン合金製フレームは、カザフスタンかロシアが生産地になるという。壁にはメルクスのアワーレコードのサポートをするエルネスト、サローニと並ぶエルネスト、そういう写真が額に入れられて飾られていた。

 

エルネスト自身はフレームは作らないが、頭を指差して、アイデアはどんどん湧いてくるし、有名ブランドとのコラボレーションの実現とか、有名選手とのジョイント話は積極的に取り組んでいると言っていた。ただ、だんだん高騰しているプロチームへの供給話は契約が難しくなっているという。

 

エルネストもロッシンの腕の良さを認めていて、メルクスのフレームは彼が担当していると言っていた。メルクスとエルネストのジョイントは、あっさり解消してしまう。フレームのブランドは1社しか表示できないルールなので、エディ・メルクスのロゴを入れたかったメルクスとおり会えなかったのだそうだ。

 

現役時代からメルクスは自社ブランドの立ち上げを計画していたし、自分の名前のロゴ入りのフレームで走ることで、ブランディングを確立したかったのだ。現役プロ選手にして、ベルギーのケッセル社や日本の宮田自転車と、エディ・メルクスブランドでロードバイクがライセンス生産されていたのだ。

 

メルクスはクサーノの小さなフレーム工房のウーゴ・デ・ローザ

が作るスチールフレームに目をつけて、フレーム供給の契約を結ぶ。

コンパクトにナベックスプロのラグを削り込んだ、ショートポイントのイタリアンカットラグは、シャープな仕上がりを誇り、日本のフレームビルダーにも影響を与えている。

 

当時は日本から日大自転車部でメカニックを経験していた長澤義明氏がデ・ローザのスタッフとして働き始めていた。フレームは作っていなかったが、ラグの削り出しや、チューブの溶接部のした仕上げを担当したり、パーツの組み付けを担当していた。ホイール組も長澤氏が担当して、フレが出にくいと選手に評判だった。

 

当時のロードフレームは、小物のロー付けが最小限に留められていて、ブレーキケーブルも、変速レバー台座も、シフトケーブルのハンガーリードも、チェーンステーのアウターストッパーもバンドどめだった。その後にそれらの台座がロー付け溶接されるようになる。

 

当時はフルカンパニョーロのレコードのアッセンブルのロードレーサーの価格が36万円くらいだった。デ・ローザのプリマト、ロッシンのロードが全盛期だった。フレームビルダーにも年齢や経験の積み重ねで旬がある。30歳くらいから65歳くらいまでがピークと言えるだろう。

 

まず心配されるのが健康と体力の問題で、経験を積んで獲得したテクニックや集中力の継続時間でカバーできるのにも限界がある。緩急を心得て製品のクオリティーを保って晩年を迎えるわけだ。生産量や製造スピードは低下する。溶接の有害な光による目へのダメージも問題なのだ。

 

だから、旬の時期にフレームビルダーと出会うことが重要なのだ。当時のロッシンは独立して共同経営者と揉め始めていた頃で、苦境に立っていた。ロッシンには宮沢清明さんが仕事を手伝っていた。揉め事に巻き込まれないように、後に、ジャンニ・モッタへ移籍していく。

 

悩めるロッシンだったが、その仕事内容は素晴らしく、フレームの美しさはもちろんだが、組み上がったロードレーサーの迫力も素晴らしかった。アシンメトリック塗装とクロームメッキなども斬新だった。フロントフォークの先曲がりも美しく、荒れた路面の震度吸収性も実用的だった。

 

ロッシンは共同経営社にブランド名を取り上げられて、ファクトリーも解散してしまった。のちにロスアートというブランドでスチールフレームの生産を再開している。一方、デ・ローザはエディ・メルクスの所属したフィアットやC&Aチームへのフレーム供給契約を継続した。

 

エディ・メルクスブランドでのゴーストブランドでの供給でした。メルクスは自社ファクトリーでのフレーム生産を現役引退と同時に開始する決断をして、ベルギーに生産ファクトリーを開いて、ウーゴ・デ・ローザをアドバイザーとして契約して、クサーノの生産ラインと同じプレヒートマシンなどを導入してスチールフレームの量産体制を築きます。

 

デ・ローザは事実上ウーゴが引退して、息子たちがビジネスを受け継いで、グロバル展開している。カーボンフレームをアジアの生産拠点で生産して、チタン合金、マグネシウム合金、スチールのオーバサイズ、スチールのスタンダードなどを製品ラインナップしている。

 

メルクス自身がフレームビルダーになるのではなく、ファクトリーのオーナー社長に就任する。ベルギー自転車競技連盟の最高顧問に就任して、現役時代の6日間レースのパートナーでロードチームの同僚だった。パトリック・セルキュと強化にも取り組んでいる。

 

生産されたフレームは、イタリアンカットのショートポントラグはロストワックス製、エンドもロストワックス製のチューブに被せるタイプになって、フレームチューブはコロンブスがスタンダードでした。ピストとロードがラインナップされました。ベルギーのトライアスロンナショナルチームのスポンサードも行なっていました。

 

アルミ合金製のティグ溶接フレームの流れが5年くらいあって、すぐにカーボンフレームの時代が否応なしにやってくる。メルクスはカーボンフレーム製造のラインを作ることを検討したが、その投資資金の大きさに躊躇して、中国系のファンドへの会社の売却を選択した。

 

ロッシン、デ・ローザ、メルクスのブランドの変遷を見守って来たが、こうも激変するとは思ってもいなかった。何だかフレーム素材の変化が大きく影響しているな〜というのが実感だ。小規模のファクトリーで対応できる、スチールやアルミの時代は、生産量が少ないのでビジネス規模も小さいが、個性豊かな時代だった。カーボンフレームの量産時代になって、生産ラインの構築には大きな資本が必要だし、委託生産のロットも大きくなって、小規模の資本では付いていけなくなっているのだ。