クマさんのバイク専科

オートバイの話し!

最近オートバイが欲しくなっているのか気になる。家族にはいい年してオートバイじゃないでしょと反対されている。30歳の頃には埼玉から都内の会社との一人通勤快速として乗っていた。取材を終えて締め切りが近くなると、レイアウトの仕上がりを待ちながら、会社は24時間営業で、早朝までとか深夜まで原稿を書いていた。時間の読めない仕事だった。

 

当然、公共機関が動いていない。お腹が減れば近くの24時間営業のファミレスでラフレイアウトの文字数に合わせてパソコンやワープロののキーを叩いていた。バブルの頃は会社が法人契約したチケットをくれて、出版社から自宅まで送ってもらえた。だけどいちいち自宅までの道案内は面倒なので、車の渋滞もほとんど関係がないオートバイに乗っていたのだ。

 

気になるのは、Vツインとかのエンジンビートがすごい大排気量のまっすぐ走るのが得意のツーリングバイクではない。かと言ってマルチシリンダーのレーシングバイク系でもない。単気筒のシンプルなバイクがターゲットだ。ヤマハの250CCか400CCのモデル、ホンダの単気筒高回転型のモデル、カワサキのZ200やZ400などだ。小型ボディで低速でもトルクがあって、市街地走行でも高速道路も車の流れに乗って走れて、実用車として扱いやすいモデルだ。

 

でも、レーシングバイクの世界の動きは面白い。ポップヨシムラのスズキのチューニングバイクがアメリカのデイトナで活躍するころの話だ。高速の連続走行と耐久性が問われるレースだ。ヨシムラさんの娘婿がモリワキエンジニアリングの森脇さんというチューナーだ。GPもエンデューロも今では排気量も変わったが、パワーもトルクもスリックタイヤのグリップを簡単に上回るモンスター級のマシンになっている。

 

その頃のファクトリーチームと、ヨシムラさんのプライベータでは、待遇もメーカーから供給される機材も全く違っていた時代だ。大量生産されたものから選ばれたパーツが集められたファインチューニングというのとは違い、素性の違う製造ラインや素材から作られたパーツがファクトリーには供給されていたから、プライベートチームより遅いなんてことあってはならないことなのだ。

 

ところがポップヨシムラのチームは違っていた。エンジン回転数は2万回という高回転を可能にした高出力エンジンに仕上げられていた。オリジナル曲げのマルチシリンダーエンジン用の高効率マフラーとか。エンジンパーツの1つ1つの仕上げなどの他に、マルチバルブとエンジンヘッドとのすり合わせ、吸気排気効率の追求など、あらゆることに着手して、鈴鹿8耐でファクトリーイーターとして活躍して、チューンナップパーツメーカとして一世風靡する。そういうのも気になったけど、とにかく面白かった。

 

グランプリバイクの最高峰が350CCの時代に片山選手という天才ライダーが登場する。鈴鹿もシケインがない時代には、200km以上のスピードで第一コーナーへ飛び込んで急減速して、前後輪タイヤをズルズルと滑らせながら、スロットルでバイクの方向をコントロールしながら、フルスロットできるポイントまでを探りながらバイクを抑え込みながら加速して、芸術作品のようなコーナリングを、当時のグリップの低いスリックタイヤで披露していた。

 

片山選手と世界を転戦していたエンジニアは何度か奇跡に遭遇しているという。エンジンオイルの管理や、フロントサスのイニシャル調整や、リヤサスのショック吸収にうるさくて、立ち上がり加速が違ってしまうし、コーナー手前でのブレーキングが変わってしまうと、コースごと、カーブごとのテスト回数が半端じゃなかったという。そこでセッティングを変えて設定が決まると、エンジニアたちへ宣言した通りにラインが1cm変わったとか、タイムが削られるのだそうだ。

 

工場のダイナモで高出力が確認されているエンジンが搬入されてきて、片山選手の決戦バイクに組み上がると、嬉しそうにスタートしていって、7周目の40km前後走ってタイヤもいい具合に温まってコースレコードを書き換えていたのだが、ホームストレッチのタイムキーパーにサインを送ると、すっと走るのを止めてパドックにバイクを入れてしまって、何事かと取り囲んだエンジニアに、マルチシリンダーエンジンの何番目かを指差して、ピストンがおかしくなっていると告げた。

 

いいタイムが出ているので、なんでテストを止めてしまうんだ、なんで距離をこなさないのかと、エンジン開発担当のエンジニアは露骨に不満を示したという。言われるままにエンジンをばらして驚いた。レーシング用のアルミ鍛造ピストンはピカピカに磨き上げられていたのだが、わずかにクラックが入っていたのだそうだ。しかも、吸排気のマルチバルブのカムのタイミングにもわずかな狂いが発生し始めていたようだ。

 

片山選手は「他チームも走っていて、新エンジン搭載のこっちのタイムを見て警戒しているだろう、このまま2周も走っていれば白煙をあげてエンジンストールするだろうから、高出力だけどロングターマックで持たないこともわかったし。いいタイムのうちに切り上げて、ライバルに幻のタイム差でプレッシャーをかけるために走るのを止めてパドックへ戻った」のだそうだ。バルブがピストンに接触した可能性があったという。

 

今ならグランプリバイクも1000CCオーバーになって、レーシングカーも、各パーツにセンサーが埋め込まれて、テレメトリーシステムで、シャーシ剛性、エンジン回転数、油温、燃料プレッシャー、空気圧、サスペンションの作動状況、燃料残、エンジン回転数、ギヤ、速度、プラスとマイナスのG、走行位置などが搭載コンピュータへ記録されている。エンジニアはデータのやり取りをバイクとパソコンで行なっているのだ。このデータが蓄積されてセッティングに生かされているのだ。

 

350CCの頃でも後半になるとタイヤがタレてきて、思い通りのラインを走って加速ができなくなって、タイムを上げられなくなるのが普通なのだが、バトルを展開しながら、ここが勝負所になるだろうということを察知して、その他のコーナーでは、消耗した部分でヨレヨレの走りを後ろのライダーに見せて、勝負所の立ち上がり加速で使う部分を温存して走っている。

 

ライバルがここしかないとレイトブレーキで前へ出たたら、クロスラインして、最後まで残した数センチ幅のコンパウンドを接地させて思い切り使って、加速競争でぶっちぎって勝つということがあったという。それにしても片山選手は神秘的で風変わりな天才GPライダーだったな〜。僕が印象に残っているのは阿部ノリック選手でもないし、加藤選手でもない。2人にはワクワクはさせてもらったけど。それ以上に活躍したのはイタリアに移住した原田選手だ。

 

日本のファクトリーチームでは、外国人お雇い選手が優遇されていて、チーム内での年俸や機材供給の扱いに満足できなかった原田選手は、正当に評価してくれたイタリアのチームのアプリリアへ移籍した。250CCのグランプリで世界チャンピオンを獲得。日本のバイクより非力と言われていたのを、インテリジェンスと神風走りで覆しての活躍だった。2億円プレイヤーの仲間入りだ。当然最高峰の500CCへのアプリリアでのチャレンジの道は険しかった。

 

マシン開発能力が企業規模に伴って低調だった。競合他社がマルチシリンダーエンジン搭載の高速バイクだったのに、アプリリアはシンプルなツインで軽いけど、非力なパワーの回転系のバイクだった。コーナーで必死でバイクを倒し込んで旋回してリードしたと思ったら、次の直線であっさり差し返されることの繰り返しで、見た目は抜きつ抜かれつで面白いが、マシンの差が大き過ぎた。

 

それでも原田選手はトップ争いに常に絡んで、コーナーリングマシンという特性を生かして、神業的な果敢な走りで時には最終コーナーの立ち上がりでリードしたまま、ギリギリ勝利してイタリア人を熱狂させた。北米や欧州の選手に負けたくないと戦っている姿に感動した。アプリリアで走っていた原田選手の人気は今でも健在でテレビコマーシャルや雑誌に登場している。イタリアで最も有名な日本人は彼だ。

 

車はドアをバタンと締めれば、その瞬間に個室になって仕事終わりで気分転換できていいけど、オートバイのようなフットワークの軽さや走って気持ちがいいという解放感は味わえない。毎日のように乗っていれば雨とか雪とか嵐の日もあって参っちゃう。冬の寒さはじじいには身に染みる。思わず信号待ちでエンジンにグローブをつけた手を押し付けることもあった。ショットや米軍放出の馬革のボンバージャケットの革ジャンの裏ボア付きは、見た目はいいけど、風が通って思ったより寒かった。

 

透湿防風のフィルムをサンドイッチしたコーデュラナイロンに、ダクロンの中綿を入れた方が軽くて温かい防水性もある防寒ウエアとか主流だ。レーシングバイク系のライダーなら革の繋ぎとデッドエアをキープできるホットアンダーだろう。ダウンベストやダウンジャケットも軽くて動きやすいけど、雨に弱い。ゴアテックスのレインウエアを着ればいいと試すと。山用品は風圧対策がほとんど施されていないので、スピードが出ると風圧で雨が染み込んだ。

 

やはりバイク用は高速道路を走ることを想定して開発されているので、時速100km近い走りに対応する耐風圧が意識されていることに気が付いたり、色々試して面白くて勉強になったな〜。10年らいはまっていました。車の通勤はロードバイクやピストバイクを持って葛西や新木場へトレーニングに行ったり、佐倉の順天堂大キャンパスや筑波大のトライアスロン部のトレーニングへ行く日だけでした。ではでは。