クマさんのバイク専科

モスクワ80のあの日を思い出した

ソビエト連邦は帝政ロシア時代の領土を元に、共産党支配の社会主義国に移行しても、多民族の国が集まってできていて広大な国土を持っている。今では独立しているように見える、ウクライナ、チェチェン、カザフスタンなど、ソビエトの倒壊も含めて混乱があって、それなりの大きな犠牲を払った紛争を経て独立国になっている。しかし、物資や天然ガスや石油などの化石エネルギーの供給などで強い依存関係が続いている。

 

今でもその独立戦争当時の火の粉は残っていて、ロシアよりの政策を取らざるをえない政府と、反政府勢力によるテロとか紛争が起こっている。ロシアの時代になってもそうした歴史を引きずって、軍事力で抑えているけど、火種としてかかえているのがロシアなのだ。80年当時はまさにソビエト連邦の時代で、東側の国の旗頭だった。アメリカを旗頭とする西側各国と、核開発、大陸間弾道弾、ミサイル開発や配備などで冷戦を繰り広げていた。

 

ソビエトは、チェコスロバキアの国民が望んだ民主化に歯止めをかけるために、ソビエト軍を派遣して制圧したり、アフガン戦争を開始した。そんなソビエトの軍事行動に対して、西側の各国が抗議のためにモスクワオリンピックへの参加を取り止めることになった。オリンピックはメダルの争奪戦で国威発揚の場でもあったから、ボイコットとは穏やかではない。僕の身近な人もこのトラブルに巻き込まれた。イタリアやフランスを中心に自転車競技の修行をしてスプリンターとしての力を付けていた,シマノレーシングの長選手だ。年齢的にもモスクワ五輪がピークだったと思う。

 

法政大学の自転車部だったが、ミュンヘン五輪のスクラッチの予選で敗退して、大学を中退して実業団の杉野鐵工所へ移籍して、強い選手が活躍しているヨーロッパで、自転車競技のスクラッチ(スプリント)の修行に専念する。当時の日本国内でのライバルはシマノレーシングの岡島選手だった。ピスト競技選手の将来としてはギャンブルスポーツだが競輪というプロ選手として食べて行ける道があるが、当時はオリンピックにはアマチュアのみが参加できたのだ。

 

当時の自転車の世界選手権は、アマチュア部門とプロ部門に分かれていて、東ドイツやソビエトやポーランドなど東側各国がアマチュア部門で参加していたから、自転車競技のピストの競技レベルは競輪選手が出ているプロ部門より、アマチュアの選手の方が高かったのだ。これは紛れもない事実だ。現在では自転車の世界選手権は、国際ライセンスはプロもアマも区分がなく、カテゴリーは年齢別になっている。オリンピックもプロアマオープンになった。

 

少なくとも当時のピストのアマチュアのトップ3は、200mで1秒から、0、5秒プロ選手より早かったから、どうやってもスクラッチで勝てる差ではなかった。現実にアマプロオープンで開催されたアーハスグランプリでは、東欧勢に続いて競輪選手が4位になっているのが最高位だ。1980年、日本のJOCは日本政府の要請で参加ボイコットを受け入れて、4年間頑張ってきた日本のナショナルチームの選手たちにボイコットを強制する。抗議のために代々木の岸記念体育会館の会議室へ集合した選手の筆頭に立って抗議の弁を述べたのが、現JOC会長の柔道の山下選手だった。その隣で意見を述べていたのが長選手だった。

 

その記者会見から2日目、長選手から電話がかかってきた。仕事場に顔を出したいという。深夜までメンテ本の原稿を書いていて、着いたら4階にいるからエレベーターで上がってきてくださいと伝えた。大阪の堺市のシマノの本社から車で東京の八丁堀まで来るらしい。真っ黒に日焼けしていて、銀縁の眼鏡をきらりと光らせた、シマノのブルーの制服を着た長選手が5時間後に表れた。手には真っ赤なデローザ製のピストのフレーム、と、真っ白なクレメンのナンバー1のウッドバンク用の100g台の超軽量のシルクコードのチューブラータイヤが6本だった。長選手がモスクワのベロドロームのウッドバンクで走るはずだった機材そのものだった。

 

真紅のフレームに真っ白なシルクコードタイヤが、まるで日の丸をイメージさせて、テーブルの上に置かれて輝いていた。僕はそれを見ただけで涙が溢れてしまった。これを読者プレゼントにしてくれというのだ。わざわざ、シマノの営業車の荷台に乗せて運んできてくれたのだ。どんな思いでピストを分解して、車へ積んだのだろう。ボイコットが決まって、年齢的なピークを考えればロス五輪は無理だと考えたのだろうか。何を考えて車を運転してきたのだろう。大学を中退して、本場で強くなりたいと、実業団の杉野に入り、後にシマノへ移籍して、スクラッチの本場のヨーロッパで、イタリアのクサーノのデローザで修行中だった長澤義明氏(後の長澤レーシングサイクル経営)などにサポートされて、修行に打ち込んでいた苦労人なのだ。

 

僕が26歳の時にピストに夢中になったきっかけも、長選手や当時サンツアーレーシングの選手だった山崎選手の話を聞いて刺激されたからだ。フィクストギヤのピストバイクのダイレクト感、バンクによって傾斜が微妙に違っていて、バンク角だけじゃなく、ホームストレッチへ向かっての傾斜まで利用して走っているというし、バックとホームでの風の向きの違いなども考えてレースするんだという。

 

とにかく走らせてもらえる、千葉、松戸、大宮、花月園、日本CSCなどどこでも走らせてもらいに行って、長選手や山崎選手、城本選手たちに雑誌記者の立場を利用して、嫌がられても自分のために聞いたアドバイスを実行して、53・52・51・50・49・48・47Tのチェーンリングと、13・14・15・16Tのスプロケットをストラップに通して持って、そのバンクに合った最適なギヤ比を探して、165mmのクランクが回りきるという三人が教えてくれた感覚を追い求めて練習した。

 

長選手に言われた通り、バンクのてっぺんを50周周り、バンクの角度が開いて平らに感じてくるまで走って、その間に風の向きや強さを感じ取って、後ろに付くポイント、ダッシュを決めるポイントを考えながら走り、スプリントの加速しやすい位置を、何本も走って、5m刻みで加速ポイントを探しました。長選手は各バンクで、10cm単位で探したと言っていました。相手があそこからダッシュするだろうと読んで、クランクの踏み出しの位置の調整も走りながら後輪をツッと浮かして合わせていたと聞いて神業だと思いました。

 

僕の1000mの目標は1分10秒だった。ここまでなら山崎選手のアドバイス通り、48の15Tで到達できた。ナンバー2とかコロンブスのPLで組んだフレームのハンガーの揺れを毎分130回転くらいのペダリングでコントロールして、クランクを回しきった〜という感覚は、速度競争の競合いで2回ほど体験できた。いいアドバイスや刺激を受けて競技に取り組めたのは、そういう師匠たちがいたからだ。目の前にその師匠の一人が立っている。

 

きっと、長選手は自転車競技にきっぱりとけじめをつけたくて、愛用のピストを読者プレゼントにして欲しいと持ってきたのだろう。長選手は欧米の100kg近い大型スプリンターと比べて体が大きい方ではない。食べて、鍛えて、苦労して戦う力を付けるために筋肉を付けていた。あまり言葉を交わすこともなく、すぐに大阪へ帰らなければならないという。宅急便でも送れたはずなのに、それでは送れない自分の手で決着をつけたい何かがあったんだろうな〜。引退してからはデュラエースの開発担当をしたり、競輪選手を受験したり、独立してフレーム製造も行っていた。

 

2度目の東京オリンピックは13ヶ月後の7月に行える可能性があるのだろうか。パンデミックはアフリカや南米ではこれから第1波だ。コンゴは、はしか、致死率の高いエボラ出血熱、新型コロナ肺炎の流行が始まっているという。医療施設も検査システムも皆無だ。これでは死者が出てから感染の広がりが把握されることになるだけだ。オリンピックの規模を縮小して、世界から集まってくる選手と、内外からくる観客を全員PCR検査をしたとしても、日本でスポーツと平和の祭典のお祭り騒ぎをしている場合なのか。

 

それより、オリパラのスポンサーも含めて南米やアフリカを支援することに注力すべきじゃないのか。フランス領だったコンゴは、なぜ自転車乗りとして気になるかと言えば、ルックの生産国だからという部分もあるので気になって調べてみたのだ。首都キンシャサに医療施設や検査施設はあるが、地方都市の医療の脆弱さは陸の孤島状態で、道路インフラさえ整っていないし、浄水道と下水道など皆無で感染症蔓延のベースになっている。中央アフリカでも風土病の宝庫と言われている。

 

はしか、エボラ出血熱、新型コロナ肺炎が流行の兆しだという。はしかは予防薬が確立されている、エボラも治療薬が合って一旦は沈静化した実績がある、新型コロナだけが、アメリカ製の治療薬と検査だけだ。何れにしても自国で対応できる力がないのだから、国連やWHOが主体になって、有志国や企業が協力して、共産主義だ民主主義だというイデオロギーを越えて、助けるしかパンデミックの収集がつかない。もしかしたら北朝鮮だって実情を隠していて、中国やロシアや韓国だけでなく、人道的な措置として国際社会が支援する必要があるかもしれない。

 

2020年7月の1年間のオリンピックの延期も、ピーキングしてきてリスタートするのは辛いけど、2021年の7月の中止はもっと辛い。長選手のような政治的な理由とは違うかもしれないが、選手やサポートスタッフが、競技の日を目指して、4年間の目標として生活をかけて必死で取り組んできたことが、肉体的にも精神的にも価値観も、ガラガラと崩れ去るわけだ。ポストコロナになれば、平和や安全や互助の大切さが再認識されるだろうし、オリンピックの存在やスポーツそのものも存在価値を考えさせられることになるだろう。

 

忌野清志郎さんが10年以上前に坂本龍一さんなどに言っていた、人間は自分でコントロールできない領域にまで科学とか経済を追求して手を伸ばし、エネルギーを使って地球環境を傷つけた。原子力発電所の危険性、大地震や感染病爆発の、それまでの価値観をひっくり返すほどの危険性を訴えていた。イベンター、放送局、スポンサー筋がこの話題を嫌おうと、世間が知りたくないと無視しようと、俺はそういうことも唄い続けると言っていた。現実に政党や政治家から圧力がかかったり、レコード会社から発売中止を食らったり、テレビ局やラジオ局からは出入り禁止、自由に唄って始末書をかけというクレームもいただいていた。

 

僕は、清志郎さんの自転車生活のサポートをさせてもらったり、コンサートツアーのコンディショニングの調整をやらせてもらった7年間に、何度もそういう場面に遭遇した。有名なミュージシャンが活動の場を失うと震え上がるようなことでも、反骨心を見せて、正面からテレビ局やスポンサーや広告代理店へ回答していた。僕は芸能界の仕組みなんか知らないから、そんなものなんだと思っていたら、井上陽水さんが、キャスティングとか、いろいろな場面で圧力がかかるので。相当の覚悟がいることなのだと教えてくれた。

 

プロデューサーやディレクターは、清志郎さんは生放送では使いたくない筆頭のキャストだという。だけどその活動ぶりの反骨精神に惚れ込んでいる世代もいて、そういう人たちが企業の決定権を持つ世代になってきているので、亡くなって10年も経つのに、デイドリームビリーバーがコンビニの看板音楽になっていたり、清志郎さんがらみの番組が作られるというのだ。清志郎さんの影響を受けているミュージシャン、俳優、タレントさんも多い。

 

出会った時、50歳というのに、ロックンローラーは元気にステージを飛び回り、自転車を漕ぎながら歌い、環境保護を訴える若者のようなことを言うんだなと思っていた。清志郎さんの大ファンだった歌手で俳優の泉谷しげるさんは、新大久保のリハスタジオの休憩時間に教えてくれた。メディアでの活動範囲を狭めるからそういう歌はおよしなさいと思っていたそうだが、でも、自分のバンドのスパイスマーケットで一緒にステージで唄っている。自分の子供の生きる世界のことを考えて行動していた清志郎さんは、サイクリングでもなんでも平和だからできるんだよ、と言っていた。その言葉が改めて染みる。ではでは。