クマさんのバイク専科

もしもピアノが弾けたなら!

駅や空港や広場に置かれているピアノを定点観測する番組があると、見入ってしまう。とにかくなんでもイイ、ちょっとは人の心に響くほど楽器が弾けたら人生が少しは変わっていたように思えてならない。タバコも吸えず、お酒も好きだし美味しいと思うのだけど、体質的に飲んで楽しめない。芸なしでただ食べるだけが得意技だった。体重は高校の時に64kg、最高時は104kgとジェットコースター状態で、現在は75kgだ。小学校の頃は、身近な環境には音楽や楽器はなかった。というより、友達のお母さんがピアノの教室をやっていたり、バイオリンの教室をやっていた。両親は給料の安い公務員だったけど、小学生の3年の時に、ピアノ教室とバイオリンの教室に行くように勧めてくれた。

 

だけど、本人がピアノを弾けるようになりたいと思っているわけじゃないし、バイオリンにも興味がなかった。ただし、ピアノもバイオリンも、うまい人の演奏を聴きに行くのは大好きだった。あのぞわぞわする感じは今も忘れない。何がダメだったかといえば、基礎レッスンの、繰り返すフレーズの自分の出している音の下手さ加減に嫌気が差したのだ。ピアノの鍵盤を押したり叩いたりの表現力、バイオリンを顎にキープして、馬の尻尾の弓と弦を摩擦させて、安定した音を出すタッチがいつまでもつかめないのだ。

 

2時間のレッスンが毎週末の苦痛で、そこへ向かっての課題の積み重ねができなくて、ちっとも進化がないので、耳元で響くのはイメージとはかけ離れた不協和音に過ぎない、一定の音を引き出せないテクニックのなさだ。とにかくどうすればこの神経回路を作るイライラの募るトンネルを抜けて、心地いい音を出せるのか、いつになったらできるのか。光が見えてこないのだ。練習曲の楽譜を渡されて、メトロノームをカチカチやられて、自分が器用じゃないこと、積み重ねるレッスンが苦手なことを思い知らされた。久里浜海岸のペリーの上陸記念碑のあたりで遊びまわっていた方が1000倍も楽しい。情けなくて涙が出てきた。何か楽器を弾けるようになりたいと始めたことなのだが、1年半で挫折した。下手さ加減を友達に聞かれるのも嫌だったな〜。

 

だから楽器を弾ける人がいまだに羨ましい。小学校の3年生から付き合っていたガールフレンドが、ギターを始めたので、一緒にギターを買ってレッスンを受けたのだが、すでにチューニングの段階で、自分にはどうやればいいのかチンプンカンプンで、音を聞き分けられないのだ。とうとう1年もかかって1曲弾けるだけで挫折した。ギターの弦がただ弾かれているだけで、その音が並んでいるだけのサンプリングみたいな演奏で、感情も表現もあったものじゃない。レッスンで彼女と一緒に居られるのは嬉しかったけど、下手なギターは聞かせたくなかった。完全に音楽はコンプレックスになった。

 

学校の音楽教育は、その頃は音楽専用の教室に移って授業を受ける。バッハやベートーベンなどのポスターが張られていて、ステレオプレーヤーが置かれていて、大音量でクラシックを聴いたりするのだ。自分で演奏するのはハーモニカかスペリオパイプという縦笛だ。課題曲を一人で吹き切る試験があった。僕は1度も受かったことがない。なにせ楽しくないので練習する気がないのだから、みんなの演奏が終わるまで立たされ坊主だった。音楽の時間にいい思い出はない。そうでもないか、音大出の若くて綺麗なお姉さん先生だったからな。

 

親友と同じ苗字だった、年の離れたいとこだったので、親友の家へ遊びに行くと、遊びに来ていて、優しくしてもらったので、悪い思い出じゃないな。翌年には妹の担任の先生になって、よく先生の実家に呼んでもらって手作りの夕飯をご馳走になった。洗濯物の洗剤の甘い香りのする部屋だったな〜。その先生に気に入られようと、楽器を弾けるようにと頑張ってみたが、やっぱり積み上げる才能がないらしく。もらえたのは努力賞だった。本当に綺麗で優しい先生だった。期待されてはいなかったろうけど、頑張った形跡は認められたのだろう。

 

美術学校を卒業しても、そのガールフレンドとは付き合った。クラシックを聴きに行ったり、スパニッシュギターを聴きに行ったり、美術館を見学に行ったりのデートもしていた。下着メーカーのデザイン部に就職して頑張った。そろそろ26歳、プロポーズの潮時かなという雰囲気になった。だけど、僕はパッケージデザインには限界を感じていた。彼女は公務員になって働いていた。上司にお見合いを勧められて、公務員の相手と会ったということを告白された。こっちは次の仕事へ移ろうと考えていたので、不安定極まりない状態。彼女には両親がいるし、近くに住んで面倒を見たいという。デザインの仕事場はどう見ても東京だ。

 

彼女の両親も当然一緒になると思っていたらしい。三浦半島の海岸や横浜で会って何度も話し合った。けど二人とも若かった、彼女は両親のことが気がかりだし、僕は新しい仕事にチャレンジしたかった。簡単に結論が出る話じゃなかった。でも、東京での仕事の受け入れ先が決まって、移籍することになって、それが面白くなりかけていたところだった。浮かれている僕を見て頼りないと思ったのだろう。僕は失うものの大きさに気がつかないで夢中で働いていた。半年くらい経過して結婚が決まったと伝えられた。

 

ショックで3日間何も食べられず、寝転がって泣いて暮らした。ところが結婚式の3ヶ月くらい前になって、会うことになった。なんでも任されてしまって大変なんだと言う。仕方がないので、結婚式の食事の内容とか、神前結婚式の予約などを手伝った。彼女が幸せになればいいかと思えるようになった。新婚旅行のチケットも何とか手配できた。今でも時々彼女の夢を見ることがある。瞬発系は得意だけど、人を安心させるような積み上げが苦手だな。音楽にしても、外国語にしても、コツコツ積み上げてベースを作って、あとは現場で積み上げればいいのはわかっているのだが、どうもこうゆうの苦手だな、かと言って得意種目もないしな。つくづく思う。ではでは。