クマさんのバイク専科

この数ヶ月で何かが変わったか!

パンデミックで都内の会社に行かなくても仕事ができることが分かって、頑張って時間に合わせて出勤する気が全くなくなった。何だそれでいいんだ、というゆるゆる感がたまらなく心地いい。だけど、思い出して欲しい、小学生のころは、土曜日が半日で、日曜日だけがおやすみだった。それが体に染みついているものだから、なかなか抜けないものだ、フルタイムワーカーは曜日の移るのが楽しみでもあり、月曜日の辛ささも味わっているはず。だけど、自宅から出かけなくなると、どうも仕事との区別というか、切り替えができなくなって、曜日感覚が薄れてしまう。一旦、そういうモラルハザードが崩れると、歯止めが効かなくなりそうで、ちょっと怖いな〜。

 

なにせ、自分に甘いので、お水も僕も低い方に流れたがる体質だから、どこまで下って行っちゃうのか、自分でも分かりかねる。今までは締め切りという歯止めがあったから、かろうじて世の中に合わせて、原稿を納品したり、企画書を間に合わせていたり、スーツを着てお役所へ面会に行って説明したりしていた。原稿や企画書を書き上げてポチッと押せば相手先に届いてしまうから、足を運ぶ必要がなくなった。

 

かろうじて曜日感覚も、日付も頭の片隅に残っていたが、家の仕事部屋にこもっていると、毎日が日曜日みたいで、携帯の待ち受け画面で日にちと曜日を確認しないと危なくなっている。夕方になってNHKで相撲中継なんか見ていると、観客が少なくて、人のぶつかる音、息や声をマイクが拾っている。真剣勝負の迫力が伝わってくる。勝ち残りのインタビューで、ゼイゼイハアハアしながら、1日1番とか、1日1日を大切にしている話しなんて聞くと、ちょっと反省モードに入ってしまうほど、最近の自分を振り返ってみると、真剣勝負もしていないし、だらだらと過ごしてしまい、時間を大切にしていないな〜と思ってしまう。

 

30歳を越えて、何の準備もビジョンもなく、ヨーロッパでプロの自転車チームのマネージメントをやって、4年間24時間働けますかみたいな状況に陥って、燃え尽きたと思っていたら2000年のシドニー五輪へ向けて、日本人選手の強化に関わって、ワールドカップやアジア選など、世界中を一緒に転戦した。チームを運営してスポンサーを獲得して、という気は無かった。とにかく始まったばかりのスポーツだったし、どう見ても日本人選手が世界に通用しそうもないのはロードレースと一緒だった。ワールドカップや世界選で上位に入ることが難しかった。だいたいコーチ達はロング上がりの人たちで、ドラフティングレースのノウハウがなかった。いくつものチームとメカニックと選手育成の契約はしたが、日本の選手を強くしたいだけだった。

 

心の底で思っていたのは、実は日本人選手が強くなることではなかった。だから、世界選やワールドカップやオリンピックなんてどうでもよかったから、冷静でいられたのだ。僕の中では、日本でスポーツ用の自転車が普及して、楽しいんで欲しい、普及して欲しいと思っていただけなのだ。そのためには日本人選手が世界で活躍すれば、注目されるんではと勘違いしていたのだ。バブルの頃のF1ブームを覚えているだろうか。日本人レーサーが次々に参戦して、日本人選手は走っていると視聴率がアップして大ブームが起こっていたのだ。日本人レーサーはスポンサーを持ってチームの座席を手に入れているのが普通だった。

 

チームがドライビングで選んだペイドライバーでは無かった。僕はこれだと勘違いしたのだ。世界の最高峰のロードレースやトライアスロンで、日本人が走れば、日本人レーサーが注目されて、トップダウンでスポーツバイクブームがくると勘違いしていたのだ。プロのロードレースは100年以上の歴史があって、競技人口が200万人もいるフランスですら、なかなか勝てないでいるのに、4000人そこそこの競技人口の日本が、ツールやジロを走るのさえ大変なことに、向こうに行ってから気がついたのだ。本場ヨーロッパで走っていなければ分からないこと、プロとして生き残るためのサバイバルを経て、契約を得られる厳しさを知ることになる。

 

チーム内での競争があって、クラシックレースやメジャーレースには選ばれない。フランス人と同じ階段を上ってプロチームに辿り着かなければ、選手として通用するはずがないのだ。F1チームのように。持参金付きの選手を受け入れるプロロードチームもあったし、そういう選手が完走もほとんどできないで走っていた時代がある。実力でプロチームに入ろうとする日本人選手に、入れてやるから日本からスポンサーを持ってこいという要求が出て、ハードルを上げてしまう元凶になっていた。今、ヨーロッパで走っている日本人選手はそういうことをかいくぐって、走りで年俸をもらって走っているのだ。プロチームで走っていた日本人選手は結構いたが、僕はペイライダーを4人しか知らない。

 

10年以上勘違いして、トップダウンのことばかり考えて活動していた。しかもトップダウンするには選手を強くしなければと、焦ってもいたけど、それがかなり大変なことで、才能ある人を見つけて、その人が世界を目指さないとどうにもならないことが分かってきた。たまたま世界ランキング8位の選手と出会ったが、コンピュータじゃないけど世界1とか、金メダルじゃないと、日本じゃ注目されないことが分かってきた。それも、一瞬のことで忘れ去られるのだ。日本で毎日ニュースやワイドショーで取り上げられるようなスポーツじゃないからだ。そんな時に忌野清志郎さんに出会ったのだ。

 

僕は清志郎さんをほとんど知らなかった。だけど、マスコミは追いかけてくるし、自転車に乗っていることは知られていた。サポートするお仕事をいただいて、それをつくずく感じた。清志郎さんと率直に話し合った。できる限りのサポートをするから、スポーツバイク普及のために利用させてくれとお願いした。ツールだジロだ、トライアスロンの世界選だというより、清志郎さんの自転車旅行の方がはるかに取り上げられた。これはトップダウンより有効だなと肌で感じた。ほとんどの転車旅や取材には同行することになった。オレンジ号の盗難騒ぎでオーダーの高いスポーツ車があることが知れ渡り、保険会社との事故処理もとても楽になった。

 

普及させる方法は1つじゃないんだなと思った。パンデミックで考え方が変わったとかいう人が増えているみたいだけど、50歳を越えたときに、何もきっかけになることもなく、人生一回だけど、だらしなく生きるのも、がむしゃらに好きなことやっても、大した違いはなさそうだから、流れに乗ってプカプカ楽に生きていこうと思った。カッパの川流れのイメージかな。ある日、ふとそう思ってしまい、ライドものんびり走ることに決めた。バイク作りも全く変わった。千葉洋三さんのアドバイスを聞いて、振動減衰性重視のバイクを組み立てるようになった。太くしなやかな、チューブラータイヤ、木リムの前輪、ハイペロンの後輪という組み合わせになった。コンポーネントは何故かホッとするメカニカルに落ち着いた。

 

それまでの剛性の高いフレーム、パワーロスのない車輪というのとはまるっきり違うものだった。ゴリゴリスプリントを繰り返すライドなんかもうできもしない。人と競争しようという気にもなれない。最近は速く走ろうなんて思わない。長くて100km、お気楽走りなら50kmを目標に、今日のライドを、美味しいものを食べて、気持ちよく走り終えることができるかの方が気になる。パンデミックなんか関係ない、40年間仕事をしてきて、会社員も経験して、フリーランスも経験して、自然にたどり着いた心境で、ただ、感染症なんかで死にたくないだけで、つくばで出会った先輩ライダーたちや・女性ライダー達の元気さにたじたじしたり、励まされて、素直に頑張ろ、もっと走りたいな〜と思っているだけだ。

 

感染症にかからないように心がけてはいるけど、こんなことで人生観は変わらないな。時間を無駄に消費している感はあるけど、焦って何かをやろうとしても、もう無理はできないので、できることはやるけど、無理して頑張ろうとはちっとも思わなくなっている。何かを残したいというのもないな。地球は化石燃料とか穀物とかを提供してくれて、人口爆発とか、地球のキャパシティを超えて、無制限に豊かさを求めた人類に、少し意地悪をし始めていて穏やかではない、子供達や孫の世代はどうなるのかちょっと心配だが、僕がいくらジタバタ心配したってそうは変わりはしないだろう。なるべく地球にインパクトがないように、心地よく過ごしたいと思っている。ただし、キャンプもしないし、田舎暮らしもしないし、野菜も作らないよ。ではでは。