クマさんのバイク専科

親友の骨を拾う!、思うことあり

桑原伸光さんは、はっきりボクの人生にインパクトを与えた人のひとり。これ以上に優しい人がいたかと思うほどだ。口では「がめつく儲けてやる」と言っていたが、相手先のことも考えていて、クワさんがそんなことできるわけがない。ウィンウィンだからこそ、彼の財産であるネットワークを広げることができたのだ。クワさんは多くの人に愛される人だ。海外の取引き先の人も葬儀に駆け付けた。お通夜には浅田顕監督も来た。告別式にはビルダー松永一治氏も来た。ラーメンのぞみの望月店長も、相棒だった阪間さんも列席した。

 

10年前に、けっこうな大病を経験して無理をできないはずなのに、自分の体のことはあまり話さず、貿易の仕事に専念してからも、自転車関連で知り合った人間の名前を言っては、お前が面倒見てやれ、気にかけてやれと会うたびに言っていた。昨年8月、病院へお見舞いに来てくれた時も、お前が早く元気になって、彼らが生きるフィールドを作れと、腸閉塞の手術をして、点滴をぶら下げて20日間絶食している時も枕元でそう言っていた。

 

入院で思い出した、見舞いに来たクワさんに、お見舞いに来てくれた人のお見舞いのお菓子や食べ物が、個室の冷蔵庫に収納してあった。賞味期限が心配でクワさんに食べてもらった。何気なく病室のゴミ箱に食べた容器や袋が捨てられていた。それが翌朝、看護師の目にとまり、昼ごろだった、すでにプリントアウトされていた警告書にサインを求められた。お腹の手術のため,一切口からの食べ物は禁止されていて、食べ物を食べるとは、治療に反する行為だと書かれていた。私は無実です、クワさんが食べてゴミ箱に捨てたんです。聞いてもらえそうにないのでサインした。

 

数ヶ月前にクワさんは妙な電話をかけて来た、新しい仕事の展開を語ってくれた。相変わらずやることを探し求めて突っ走っている、その気持ちは良く分かる。クワさんらしい感じだった。でも、体調が悪かったのだろう、それを始めるに当たって、やる気があっても体が付いてこないというのだ。妙に弱気なクワさんだった。がんとともに血管系の大病を経験しているクワさんは、無理をできないはずだ。でも、ストレスを帰り見ない仕事ぶりは、クワさん自身もどうにもならない内なる衝動とも言えるもので、自分ではどうにも抑えられないその衝動に、命の危険を感じ取っていたのかも知れない。

 

誰もが、ひと休みすればいいのに、そこまでしなくてもと思うのだが、クワさんを止めることはできない、突っ走るからこそクワさんなのだから。念押しするように、もし自分がその仕事の途中で倒れたら、オレの葬式に来るだろう、終わったら、仕事のパートナーは一人になってしまうので、そのケアをしてやってくれと言われた。そんな話は縁起でもないと言ったのだが、それが彼の遺言になってしまった。

 

桑原伸光さんの告別式に行ってきた。前の晩、どうにも深く眠れない、8時発を予定していたが、目が覚めたのをきっかけに6時にスタートすることにした。ふじみ野から辻堂まで行程は70kmか80km、2時間ぐらいで着けると思っていた。首都高速に与野からのって、どう行けばいいのか分からないのでカーナビ任せで行くことにした。山手通りの下の首都高で東名にのり、横横線へ移ると大渋滞が始まった。一般道の国道1号線へ下りて、見覚えのある道を藤沢方面へ向かう。10年以上前、清志郎さんの東京ー鹿児島1700kmライドで使った道だった。

 

朝8時に、藤沢市の辻堂駅の近くに着いた。この辺りは昔、ミヤタレーシングの選手が住んでいて、選手やメカニックへの取材に来たり、待ち合わせてご飯を一緒に食べた場所で、駅前は、記憶では大きな工場だったのに再開発されていた。まったくメモリアルホールの場所の見当がつかない。しかし、昨日の夜はまったくどうかしていた。メンテ本のラフレイアウトをサイスポのケンタくんと、実家の2階の部屋で23時までやって、ふじみ野駅にケンタくんを送って、その帰りに黒い靴下と香典袋をコンビニで手に入れて、帰ろうとして右折した時に歩道との段差にドカンと乗り上げた。どうかしている自分に気が付いた。

 

外はザーザーの雨、ゴアテックスのパーカーを着て、クルマの亀の子状態を確かめて、JAFを呼ぶか、自力で解決するかを考えた。この失敗を後悔したり、嫌だなーという気持ちにはならなかった。ザーザーの雨を全身に浴びながら、妙に冷静になれた。あの時もそうだったなとデジャブーに支配された。武道館での復活コンサートに始まり、清志郎さんの予定されていたコンサートツアーが名古屋で終わり、その日のうちに豊橋の温泉宿に清志郎さんが移動したはずの夜。清志郎さんのバンドのバンマスからの電話だった。ボクはその電話を筑波で受けた。清志郎さんが歌の出だしを外したというのだ。未だかつてこんなことはなかったという。どういうことなのだろう、心配だというのである。清志郎さんの楽器の調整を担当しているしゃぶちゃんに電話をかけて様子を確かめると、やはりおかしいという。もしかしたら軽い脳梗塞を起こしているのかもと思った。

 

清志郎さんの泊まっている宿周辺の脳外科のある病院の状況を調べた。もう夜9時だから地域の当直病院、しかも脳外科医が当直している病院を探してからマネージャーに連絡した。清志郎さんの携帯に電話を入れたら驚くだろうから。何か異変があったら、この病院のこの当直医に連絡して、救急車で移動するように伝えた。でも心配になって、自転車や荷物を満載したアヴェンシスで常磐高速にのって、首都高から東名高速で、早朝に豊橋の清志郎さんの泊まっている宿に着いた。クルマの中で仮眠していると、清志郎さんが朝の散歩の時に気付いて、ちょっと驚いていたけど、一緒に朝ご飯を食べることになった。

 

マネージャーは清志郎が蛍を見たがっている、もう一晩泊まるので、時間があるなら泊まっていけという。翌日の仕事をキャンセルして温泉に入って夕食を一緒に食べて、宿のひとのクルマに乗って蛍を見に行った。広い水田や水路一杯に蛍が光っていた。まるで青白く光る雪が降っているようだった。この情景と清志郎さんを見て、鈍いボクにも理解できた。マネージャーは、放射線と抗がん剤の治療を受けて、一旦は沈静化しても、がんが再発することを医師から知らされていたようだ。転移していた腰の骨の痛みを抑える薬を飲んでの最終コンサートだったようだ。バンドのひと達にも伏せられていたのだ。

 

滞在を切り上げて東京へ帰るという。新幹線で帰る予定だったが、ボクのクルマで、高速道路で帰ることになった。つくばライドの着替えなどの荷物を宿から宅配便で送り、清志郎さんのリモアのトランクなどを積み込み、バイクはルーフキャリヤにつけたまだ。東京の病院へ送ると、翌日には清志郎さんのがんの再発が発表された。雨に打たれて亀の子からの脱出作業をしていると、何だか、あの蛍が雪のように舞っていた光景を思い出した。クワさんが去って行く瞬間を感じてしまった。スペアタイヤの脇からジャッキを取り出した。亀の子になったけど、古い材木を見つけて、片輪ずつジャッキアップして板をタイヤの下へ入れて、ボディを浮かせてバックして回復させた。やっとクワさんの死と向き合う覚悟ができた。お通夜に行ったひとが眠っているような顔だったと言っていた。

 

メモリルホールの階段を上がると、松永氏がクワさんのために作ったカーボンバイクが置かれていた。ボクがデザインした緑のエキストララージサイズのジャージもかかっていた。葬儀は始まったがお焼香に行く気になれない。顔を見てしまうと死を認めてしまうようで行けなかった。出棺の時間になり、花でクワさんを埋め尽くす最後のセレモニーだ。このとき初めてクワさんの眠っている顔を見た。「のぞみのラーメンと餃子は入れてくれねえのかよ、ガッ八ッハ」という声が聞こえて来そうだ。

 

クワさんの息子と話した。くるまメーカーのモスクワ支店ので働いているという。スポーツバイクつくばマツナガの「クマさんのバイク専科」のブログを読んでくれたそうだ。オヤジさんの弱さも強さも知っていて、体のことを心配していたという。オヤジを尊敬しているいい息子さんが育っていた。最後まで見送ろうと棺に付いて行った。貿易をやっている阪間さん達と一緒のバス移動だ。棺が炉の中に入って行った。天窓から薄らと揺らぐ煙を眺め2時間後、クワさんの白い骨を拾い上げて骨壺へ納めた。クワさんの遺言になった約束は守るから安心して、ありがとうクワさん。ではでは。