ドッグトレーラーの製作が部品待ちで中断しているので、
次ぎの製作シゴトをするべく、オーダー仕事を整理をする。
と同時に、それらに使う材料の手配もしなければなりません。
部材によっては、ヨーロッパへ頼まなければならないものもあり、これがまたやっか
い。
当然ボクのような弱小町工場以下レベルの製作所なので、
発注する数などたかがしれているので、
相手がなかなか動いてくれない。
また、新しいものがでれば、使えようが使えまいが、
とにかく買ってみなければ、
日本ではそれをみることができないので、買わざる得ない。
この辺りは、自転車レース文化のない国で自転車製作をするハンディですかね。
これがイタリアでやっていれば必要な物が三日とおかずに手にはいるのでしょう。
まあ、ぶつくさ言ってもしょうがい、この国で自転車つくりはじめてしまったのだか
ら。
もしイタリアで相撲のまわしを作る仕事をしている人がいたら、
ボクと同じ悩みをもつんでしょうね。
浅田監督インタビュー (20)
浅田カントクに聞け!
マ: マツナガ
ア: 浅田監督
マ:浅田監督が自転車レース始めたのはいつ頃なの?
ア:15歳の時です、高一ですね。
マ:きっかけは何だったの?
ア:やっぱりツールドフランスです。TVでツールをみて、カッコいいと思い、すぐ
にやることを決めました。
マ:それで自転車レース始めたいとおもって、最初に何したの?
ア:とった行動ですか?
マ:そう
ア:近所のクラブチームにいた、結構強い選手の弟子になりました。
たまたまその人が僕の通っていた中学の先生という偶然もあったんです。
マ:それでいわゆるホビーレースにでるようになりすぐに成績がでだした?
ア:そうですね、2戦目で優勝してました。
マ:それで、すぐに登録をしてカテゴリーアップをしたの?
ア:そうでね、高二の時に実業団登録をしました。
マ:で、登録で走り出して、そちらでも成績をだして、
ブリヂストンレーシングチームに入ったんだ。
ア:そうです、3年でやめましたが。
ア:その三年の間でフランスへ自転車留学した経験がきっかけで、
このまま日本でやっていたらダメだと気づき、
ブリヂストンをやめて日本を飛び出した。
ア:そうです。
マ:そうして、その後日本で行われる世界選手権のためにつくられた、
日本初のプロロードチーム JPP に参加することでプロ選手になったんだね。
世界戦後JPPが解散した後、個人でヨーロッパのチームと契約をしたよね。
その交渉も自分でやっていたの?
ア:はい、自分でやりました。
つづく