ツールド沖縄とか、真冬のロードやトライアスロンの合宿地として利用していた。コバルトブルーの海に囲まれているレジャーアイランドです。冬になると日航のオクマリゾートのコテージを借りて住んでいましたね。寒くても気温20度で、水温も20度と競泳プール並みなので、ウエットスーツを着て快適に泳げるんです。サンゴが石灰岩になって、それが舗装のアスファルトに混入されているので、雨になるとツルツルに滑るんだよな。この滑る道に慣れていないレンタカーがやんばるの谷底へ落ちていました。
沖縄独特の食材もあって、ゴーヤチャンプルーとか色々沖縄料理を楽しむんだけど、3日も食べ続けるとちょっと何か別のものを食べたくなるのだけど、沖縄は優遇税制でお肉が安いんだよね。それも石垣牛が美味しいのだ。よくステーキハウスに通って、2ポンドステーキ食べたなー。コンビニご飯は独特で、お弁当には必ず揚げ物が入っていた。熱帯魚のようなお刺身が苦手で、カツオの入荷を探して食べにいっていた。オクマリゾートは朝食も夕食もビッフェスタイルで、普通に食べられるので長期滞在も快適でした。
沖縄を南から北まで、ぐるりと走っていると、海岸線にも険しい山の中も点在している、基地の近くを走ることになり、ずいぶん返還されたり解放されてリゾートホテルやビーチになって、華やかなリゾート地になったりしていますが、高いフェンスに囲まれた4000m滑走路のある航空基地や実弾演習地やゴルフ場やプライベートビーチ、総合運動場や住宅やスーパーなどの占有施設の多さと広大さを感じさせられました。街にも米兵が大勢歩いていますし、マッチョの海兵隊のサイクリストも多いですね。不時着で問題になっている垂直離着陸機オスプレイの配備の反対運動などにも出会いました。
先日、沖縄県の県議会の選挙が行われて、県知事側の党派が過半数を確保した。当然、辺野古への基地移設反対派の勝利だ。政府は選挙中は埋め立て工事を中断していたが、県議会議員選挙終了とともに辺野古の海の埋め立て工事を再開した。実は辺野古の問題は、沖縄がまだ日本へ返還されていなくて、パスポートが必要な米軍基地アイランドだった頃からの話しなのだ。その頃、親父は軟弱地盤の専門家として民間会社のコンサルティングのスタッフとして働いていた。橋とかダムとかの研究は進んでいたが、軟弱地盤という研究分野はまだまだ事業的にも学問的にも確立されていなかった時代だ。ところが、東京をはじめ、大阪も、横浜も、福岡も不思議なことに大都市は地盤の弱い土地に限って発展している。それは海外の大都市も同じで、ニューヨークもサンフランシスコも軟弱地盤の上に発展している。親父はビジネスモデルとして、軟弱地盤の基礎工事に目をつけた。世界中に働く場所があると考えたのだ。
国営の研究所で働いていた経験を買われて、大学が新設した土木課の軟弱地盤の教官としても働いていた。それまでに研究所で東京湾の港、台風に対応する岸壁作り、羽田空港、成田空港、大阪の新空港、東京湾岸の首都高速、新幹線などの最先端の現場で軟弱地盤の基礎工事設計の仕事をしていた。ボーリングの機械を改良したり、現場で作業を行いサンプリングして、どのくらいの圧力に何時間耐えられるかの圧密試験や、サンプルが土や粘土、砂の粒の大きさ、こ砂利などの比率を解析する粒度試験をやって、データを出して、数週間もかかる複雑な計算をして、どういう方法で土地改良して、コンクリートパイルや、テトラポットをどこへ置いて、波のエネルギーを分散させ護岸を守るかなど、基礎地盤設計のコンサルティングに取り組んできた。
大学の研究室でこそ研究してきたわけではないが、国営の研究所で最新の機材と施設で、現実の条件の違う工事に立会い、解決法を考え新技術や機材を開発しては、後の軟弱地盤の基礎設計のスタンダードになっていく。公共工事や民間の構造ビル建設など、難問だらけで前例がないので、フロンティアとして面白かったという。問題を解消してきた信念や自信もあったと思う。空港設計など、大きな事業には委員会という工事の方針を決める事務局が立ち上がる。国立大学の土木や建築の教授が委員に選定されて、専門家として意見を述べるのだ。だいたい色々な学説や論文を持ち出してきて、紛糾するのが見えている。取りまとめを依頼されているのが親父だった。国営の研究所にもいたし、軟弱地盤の最先端技術の大手ゼネコンが難工事の時に頼りにする民間企業のヘッドスタッフであり、教授たちも研究所時代や民間時代に、手がけた工事を知っているからだ。だいたい発注元の国側から指名されていたようだ。
復帰前の沖縄からの調査依頼は米軍の依頼だったらしい。夜間発着訓練をしても住民の反対を受けにくい飛行場の設置が狙いだったらしい。米軍も住宅地へ軍用機が墜落をすると、人命が失われてしまう事故を起こすと、沖縄で米軍基地を維持していくのが難しいと考えはじめたのだ。住民の反対運動も始まっていたし、ベトナム戦争や冷戦の真っ只中で中国やロシアの近くに安定した基地を確保しておきたかったのだ。日本国とアメリカの表向きのお約束は、本土の米軍基地から直接ベトナムへ攻撃に発進しない。核兵器を日本へ持ち込まないというものだった。ベトナムには、当時は日本ではない、沖縄の空港に立ち寄って、ワンタッチダウンしてから、B52の北爆も海兵隊も出撃するというものだった。核兵器の持ち込みに付いてはまるで嘘で、沖縄には爆撃機搭載型、ミサイル搭載型、潜水艦搭載型、破壊力が限定された戦術核など、各種の核兵器が持ち込まれて、取り扱いを心得た実践部隊が常駐していた記録や当時の日本の首相との密約が米国の公文書館から公開されている。
日本政府が本当に日本本土への核兵器の持ち込まないという公約を信じているはずがない、兵器の専門家の自衛隊だって、国会議員だって本当に信じていたはずがない。本土へ核兵器を持ち込まないと言っていても、航空母艦、爆撃機、戦闘機、潜水艦、ミサイル巡洋艦、いずれも核兵器を搭載しているとも、搭載していないとも戦略上答えられないという。日本の基地や港に入港する時に、洋上で核兵器をいちいち下ろす危険な作業をするはずがない。ということは、内部を点検する権限を持たない日本側が確認に行けないのだから、堂々と日本へ持ち込んでいたのだ。米軍には核兵器の艦船からの載せ替えのマニュアルすらなかったという。核兵器の工場からの運搬は特別な護衛部隊が編成されて、艦船や航空基地に搬入されて、放射能汚染に対応できる部隊が準備されて、倉庫へ搬入されて、港の艦船への搬入には専用のクレーンなどが用意されて、専門スタッフが状況を観察しなだら、艦艇の最深部の保管ラックまで運び込まれて固定され、推進制御システムや、起爆システムの確認が行われて終了する。こんな危険な作業が洋上で行われているはずがない。
20年以上の昔に米軍が調査依頼した時に、候補地となったのが現在の辺野古岬だった。4000m滑走路を持つ基地を作る予定だったのだ。今の日本政府側が発案している代替え基地の辺野古基地建設計画の話とは別の話だが、当時の地質調査で軟弱地盤は見つかっていて、日本政府が提示した2000億や3000億円で基地ができるわけがないと、当時調査した親父は言っていた。するとコンサルティング会社へ、政府から指名の辺野古の調査依頼があって、沖縄の元請け地質調査会社を通してやることになった。その会社の社長は最初の辺野古の地質調査の時に、元請け会社の社員だった人という。ボーリングで採取したコアを持って、その会社の試験室で圧密試験や粒度試験をすることになって行くと、試験室が泥などで汚れていたので、親父は頭にきて、これから3日間かけて大掃除を宣言して、沖縄のスタッフを総動員して、ピカピカに仕上げたという。
マイクロゲージを新品に交換して、ダメな部品を取り寄せて、働ける環境づくり、データの精度が重要なことを、この3日間で叩き込んだという。沖縄の地質調査の歴史を変えたと言われる、防衛庁や米軍への報告書をまとめることができたという。そのスタッフは社長になって、その時のことを忘れずに、国にも、防衛省にも、親父の会社を再度の現地調査に指名するように強く推奨して認めさせていたのだ。調査結果が出ると、政府は辺野古の海底に軟弱地盤が見つかって、完成までには12年かかり、数千本の砂ぐいを打ち込んで地盤改良が必要という。費用は9000億円かかるそうだ。当初の3倍から5倍という予算だ。
問題の本質は、現行の、密集した住宅に囲まれた世界一危険と言われる米空軍基地が12年も運営されることだ。ドローンなど偵察や戦闘攻撃できる誘導兵器など、兵器そのものの特性も変わり、人命の犠牲が考えられる地上戦を戦う海兵隊や混成機甲部隊、離島奪還戦の専門特殊部隊の運用など戦略的にも変わり、1000億円もグアムへの引っ越し代を支出してくれれば移転したいという軍や議会の要望もあるという。1000億円の方がはるかに安くない?。もう最前線の基地はグアムでいいんじゃないか。潜水艦に、ミサイル、ドローンの時代に、沖縄に陸、海、空の米軍基地が必要なんだろうか。ではでは。