クマさんのバイク専科

憧れのトヨタ2000GTのお話し

昭和の30年代の後半のお話しです。昭和39年が東京オリンピックでした。小学校の5年生ぐらいだったかな。多摩美の学生に個人指導を受けに行く途中、京浜急行に沿った道に止まっていたのが、赤と黒のトヨタのS800でした。四角い4ドアの乗用車やトラックが当たり前の時代に、流線型の2シーターのスポーツカーだったと思います。焼肉屋さんのおじさんがオーナーでした。カッコよかったな〜。ハードトップとホロのオープンカー仕様があったと思います。後にヨタ8ブームがありましたけど、その前の話です。

 

日本が少しずつ豊かになって行く、ゆとりが出てきた時代の象徴のような存在で、4ドアのセダンや荷物を後ろへいっぱい乗せる仕事用のステーションワゴンでもない、廉価版のスポーツカーの登場です。ライバルにはホンダのS800がありました。そういう1000CC以下のエンジンのライバル車関係がとっても面白い時代でした。空冷エンジンのホンダの1100CCや1300CCクラスの車も頑張っていました。そういえばフィアットのチンクエチェンテを思わせる、スバル360もハードトップや、イワシの缶詰のフタをまくり上げるようなホロのサンルーフタイプが、そこら中にいましたね。とにかくユニークなパッケージの車がいっぱい走っていました。

 

公道を走っているのを目撃してびっくりしたのは、ポルシェカレラ6でした。こんな形の車が走っていいのかという。耐久レースのウイングやエッジを付けた車体で、ばらつき気味の豪快なマルチシリンダーのエンジン音をさせて、ワークスカーのような車が、ナンバーを付けて横須賀の街を走っていました。レーシングドライバーの滝慎太郎さんの運転だったと思うけど、有鉛ハイオク?、どんなガソリンで走っていたんだろう。車高の調整とかどうしていたんでしょう。

 

米兵が運転している大柄なハーフトラックや、フォルクスワーゲンのバナゴンも、セパレートのフロントウインドを前に開いて走っていました。当時、クーラー付きの車なんて、ほとんど走っていませんでした。お役所のお偉いさんの送り迎えの車でも、小さな扇風機装備が多かったですね。初めてクーラー装備の車に乗ったのは、観音開きのトヨペットクラウンに代わって入庫した、黒塗りの日産プリンスのセドリックでした。

 

コカコーラのコマーシャルに登場した、レーシングドライバーの生沢徹さんなんか超かっこよかった。四角くてカッコ悪かったけど、プリンスのスカイラインや、スカイラインGTRは走りの凄みがあって、須走落としという危険なバンクがあった富士スピードウェイのカーレースでもポルシェとかをライバルにして、頑張っていたな〜。とにかくこの時代のカーレースっていうのは、排気量などのクラス分けはされているものの、日本グランプリと称して混走させて、走って速ければそれでいいという、無差別級みたいな、なんでもありなおおらかな時代でした。

 

ヤマハ発動機はDOHC、ダブルオーバーヘッドカムの2000CCの高性能スポーツカーエンジンを開発していました。バルブを2つのカムで開閉して吸気と排気を強制的に行う、マルチシリンダーの6気筒エンジンです。2座席に、プラスワンの横向きの3座席のスポーツカーのパッケージにそのエンジンを収めたのがトヨタ2000GTです。ホロのオープンカーと、ハードトップがありました。日本をフィールドにした007シリーズの、ジェームスボンドは2度死ぬのボンドカーに採用されました。

 

ボンドカーは真っ白なセクシーなコンパクトボディのオープンカーで、後ろのトランクには複数のロケットランチャーが搭載されていました。高級感漂うウッドパネルの採用とか、高級機械時計のようなシャープなデザインのメーター類が埋め込まれています。シフトノブはオリジナルはローズウッドだったのかな。細く華奢な感じのシャフトの分厚いメッキが印象的でした。子供だった僕には宝箱のような印象の車でした。当時の価格は260万円から340万円くらいの限定生産車だったと思います。

 

大学卒業の公務員の給料が1万円とかの時代です。300万円で立派な中古のお家が買えました。今なら3000万円くらいかな。とんでもなく高価な車でした。300台も生産されていないはずです。いつだったか覚えていないのですが、1度だけエンジンをかけたのを聞いたことがあって、ウエーバーの気化器付きで、まるで鼻水を吸い込むような、もがもがシューシューという吸気音と、かちゃかちゃという、込もったメカニカルノイズが印象的なエンジン音でした。

 

大らかな時代でした。実は、車が大好きだったので、運輸省の研究所の中の車庫に通って、車のボディやガラスをピカピカに磨かせてもらって、中にも潜り込んで座席に座らせてもらって、小さいホウキではいて綺麗にして、マットを布団叩きで叩いてピカピカにして、毎日通って、運転手さんと仲良くなりました。座席にちょこんと座っていると、エンジンの掛け方に始まって、クラッチ付きの車の運転を教わっていました。広大な研究所の、閉ざされた構内でしたが、ルノーやヒルマンミンクスや、縦目のセドリックを研究所がお休みの日に、のろのろでしたが運転させてもらっていました。

 

だから、小学校の5年生の時には、チョークを引いて暖機運転もできたし、ちゃんとシンクロの甘い車の変速もできて、直進もできたし、スイッチをひねって、ベロみたいな方向指示器を出して、重ステのハンドルを必死で回して右左折も、バックもできるようになっていて、めちゃくちゃ車に興味がありました。当時、久里浜の運転免許試験は、小学校の校庭とか、自衛隊のグランドに白線で描いたコースを走ったり、車庫入れをやったりで、実地試験をして審査を受けていましたから、よく見学に行っていました。16歳で軽免というのも取れたような気もします。

 

街にはどっどどと走り回るオート3輪のトラックとか、ダイハツのミゼットとかも走っていました。まるで三丁目の夕日みたいな世界でした。そんな、のほほんとした時代に、トヨタ2000GTという、下々にはまったく関係のない、夢のような車が登場していたわけです。そんな子供の頃の夢の車がトヨタの博物館に稼働する状態で保管されているそうです。その車のオーナーだったのが、お赤飯好き好きさんの義理のお父さんだったらしいのです。

 

義理のお父さんは、限定生産のとてつもなく高価な2000GTを手に入れてオーナーとなりました。かわいい娘2人を連れて、3シーターのコンパクトな室内にちゃぶ台を乗せてピクニックへ出かけていたそうです。なかなか粋な人ですね。そのカッコいいスポーツカーに乗っていた娘さんの1人をお赤飯好き好きさんはお嫁さんにもらったわけです。今や、義理の息子さんは、タイムのアルプデュエズのオーナーだぜい!。ではでは。