クマさんのバイク専科

6、4kgのオレンジ1号

1990年に日本で自転車の世界選手権が開催されることが決定して、日本のトップロード選手にプロ車連から、プロ選手に転向しないかと声がかかった。当時の日本はロードレースと言えば、実業団チーム所属か、クラブチーム所属のアマチュア選手で、ヨーロッパのプロチームと契約して走っていたのは、市川選手だけだった。選手のUCIのライセンス区分の制度も今とは違っていて、アマチュアの選手登録がカテゴリー別にあり、プロ登録も、UCI登録された公認チームに所属契約した選手と、個人プロというカテゴリーがありました。50前後のUCI登録のプロチームと契約している選手のリストと、個人登録選手のリストがありました。

 

個人登録のプロ選手はピスト競技の選手が多かったですね。6日間レースや、各国のバンクで開催されるピストのレースに出場していました。もちろんUCI公認のプロレースへ出場するには、UCIのプロ登録ライセンスが必要でした。UCIの事務局がジュネーブにあって、プロ選手登録が必要でした。プロロードチームの場合は、結構高額なチーム登録料を支払って、スポンサーや財務責任者などの登録が必要で、所属する選手の登録が必要でした。UCIのリストが毎週更新されていて、レジストレーションで写真付きのプロライセンスか、パスポートとリストとの照合が行われて、レースへの出場が許可されていました。

 

プロ選手としてヨーロッパで走るとなると、公式に入国してプロロードレースを走るには、フランス大使館に受け入れ先や契約内容の書類などの必要な書類を提出して、申請して、労働ビザを取得して入国することになります。日本から移籍したサッカー選手でも、労働ビザを取得しないと試合に出場できません。国境でパスポートの提示がほとんど無いEU域でも労働ビザの取得には、通常で3ヶ月くらいかかりました。受け入れ先からのプッシュや、日本の外務省からのプッシュがないと、EU全域への移民の流入問題もあって、その国にメリットがある特殊な技能者として認められないと、手続きはなかなかスムーズには行きません。それに更新手続きが必要です。

 

アマチュア選手の場合は、所属国の自転車競技連盟が発行する国際ライセンスのコミッセールへの提示で、国際レースを走れました。プロ選手の場合も世界選手権だけは所属国の発行するプロ自転車競技連盟の国際プロライセンスでピストもロードも出場できます。しかし、プロロードレースにはUCIのプロライセンスでしか出場できません。プロへの転向を決めた選手に頼まれて、チームのマネージメントを引き受けることになって、活動資金は自腹で、ものすごい日々が始まりました。スポンサーの獲得活動のために、電通とか博報堂とかアサツーという広告代理店にアタックして、年に88社の広報部やヘッドスタッフを訪問して、チームのプロフィールやビジョンを語りました。

 

やっとツールドフランスという、22日間でフランスを一周する世界最大規模の大会があるらしい、というのが日本の現状でした。当時の日本のロードレース全体の広告媒体としての商品価値は1000万円にも到達しないという評価でした。それでも、プロチームのヨーロッパでの運営には、1億円近くかかると試算されました。そういう計算も自分でやりました。赤坂の自転車会館内にあったプロ車連へ行き、片折理事長に面会すると、日本のトップロード選手をプロに転向させて、日本人プロロード選手をヨーロッパのロードレースに参加させて、育成して、90年の日本での世界選手権のプロロードレースで完走できるようにしてくれという要望を聞かされました。

 

90年開催の世界選プロロードレースでの日本人選手の完走と言われても、意味が飲み込めませんでした。片折理事長はロードレースの実態を知っているのかな。レベルが格段に低く、距離も50km近く短いアマチュアのカテゴリーですら、世界選で日本人選手の完走者がいないのです。市川選手が完走しているという人もいますが、公式計測員が引き上げていて公式記録の完走者リストに名前はありません。プロは距離が240kmくらい、平均時速が35kmから40kmで、後半の50kmからの勝負どころは時速50km近くで走ります。当時の日本人選手は先頭から20分とか30分ちぎれるはずです。それを3年で差を詰めて、周回遅れにならないで完走させるというプロジェクトです。

 

とにかくロードレースの本場で走って、まずは本場の走りに慣れること。レースの走り方も、週に2回のロードレースをこなす体力も、プロロードレース独特の勝負どころでの驚異的なスピードも、何もかにもがチャレンジでした。いきなり日本のアマチュアが、プロロードレースや、プロロードチームが調整レースとして走るアマプロオープン、ベルギーのケルメスクールスに出場したのですから、対応できるわけがありません。日本のトップ選手でも、最高成績が20位から30位、完走もままならないレベルの高さです。

 

しかも、慣れないイタリア、フランス、オーストリア、ドイツでのホテル暮らしの海外生活をして、レースの主催者と交渉して、ヨーロッパ中のレースに週に2回は出場していました。ヨーロッパのプロ選手は年に80から130のレースをこなしています。長距離移動続きのレース活動ですから、日本では1ヶ月に数回のレースで、あとはトレーニングという環境なので、ヨーロッパ選手みたいなジュニア時代から、このレース環境に慣れていない日本人選手には、レースを走りながらのりコンディショニングして走るのは、辛いレース活動です。

 

選手の育成も大変でしたが、レース活動を支えるスタッフの育成も必要でした。見知らぬ外国の道をレースの開催地への車での移動、機材のメンテナンス、補給食作り、補給地点への先回り、ホテルへの先回りしての受け入れ準備、チームの拠点への移動、レース主催者との交渉などをこなせるようにトレーニングします。90年の世界選は2名の日本人選手が完走して、片折理事長との約束を果たせました。毎年長期の海外遠征を行い、年に1億円近いお金を投資しての成果でした。全くの素人がチャレンジしたので、遠回りもしましたが、21歳で日本チャンピオンになった浅田顯選手がヨーロッパのプロチームにペイライダーとして移籍して、レース活動して、フランスでのコネクションを作りました。

 

それがベースになって、監督になって、ブリヂストンチームの海外遠征を実現したり、ヨーロッパでのレース経験を生かして、アテネ五輪のロードレースをトップグループで完走の田代選手を、プロの現役時代から運営していたクラブチームで育成したり、新城選手や別府選手のフランスのエリートチーム入りを実現できて、フランス人選手と同じステップを踏んでプロチーム入りへ繋げています。浅田くんはヨーロッパでのレース活動を目指して準備していると思いますが、2020年の東京五輪ではロードチームの監督として活動しています。

 

91年、スポンサーからの活動資金の調達、時差9時間ある日本へのレース結果などの報告、広報活動、トップダウンでのスポーツバイクの普及に限界を感じ始めていました。そんな4年間のプロロードチームの運営で疲れ果ててしまいました。サポートしていただいた片折理事長との約束も果たすことができたので、実力をつけてツールに出られるチームへのステップアップを目指す、プロチームへ所属する日本人選手へのサポートは継続しましたが、ヨーロッパでのチームとしてのレース活動を停止しました。

 

日本に帰って、シドニーオリンピックから正式種目になるという51、5kmトライアスロン、日本チームや個人との契約でメカニックサポートを、ワールドカップや世界選や、国内のシリーズで始めてめていましたが、どこか気が抜けていて、集中しきれていなくて、ふわふわして暮らしていました。そんな時、サイクルスポーツの表紙の撮影のお手伝いに多摩川土手のサイクリングコースへ行くと、モデルは忌野清志郎さんだった。その後、東京―鹿児島、沖縄ツーリング、ホノルルセンチュリーライド、アースコンシャス熊野古道、四国・中国コンサートツアー、NHKのツールド奥の細道、四国お遍路、ビーパルのキューバツーリングなど、雑誌やテレビ取材の走りをサポートした。

 

プロチームとして活動しても、ツールに出るには時間も資金もかかる、世界選やオリンピックへ出場しても注目度は低いし、メダルを獲得しても優勝しても、一瞬のスポーツニュースで報道されるだけでしょう。トップダウンでスポーツバイクを普及させる方法より、メディアでの露出が多い清志郎さんの走りを、スポーツ医科学、機材の選択、フィッティング、メカニック、サポートカーで支えることがロードバイクの普及という、一般へのアピール度が高いので重要ではと思うようになりました。

 

最大酸素摂取量を筑波大学のラボで測定したら、毎分55Lでした。清志郎さんはラボでの体力測定後、LSDトレーニングを意識するようになった。ステージにもポラールの心拍計を付けて上がり、歌ったり踊ったりのパフォーマンスがぴったりLSDレベルの運動強度だとわかりました。コンサート会場までバイクで移動して、リハーサルも本番も合わせて6時間はLSDしていました。最長で1日に200kmを走ることもありました。

 

代々木上原の自宅に迎えに行くと、普段はお昼過ぎに起きるという正しいロックンローラー生活しているという清志郎さんが、8時というのに朝ごはんを食べて待っていました。アヴェンシスの屋根にライド参加者のバイクを乗せて、つくばへ走りにくると、フルーツラインを時速35kmから40kmでグループライドへ混ざって走っていました。「疲れないで、どこまでも走れるようなバイクが欲しい」と相談されて。カーボンバイクを作る、つくばにショップ兼工房を開店している松永一治氏を紹介した。

 

マツナガ店長は、有力実業団チームでレースを経験。引退後アマンダスポーツでフレーム製作を担当。アメリカでのフレームの製造スタッフを目指して有名工房を訪問。帰国後、多くのプロ選手からオーダーを受けている、イタリアの有名工房のカーボンフレーム製造のアドバイザーとして、公式な労働ビザを取得して働く。

 

帰国後、神奈川県のショップ兼フレーム製作工房で店長として働く。ヨーロッパのプロチームの所属選手だった浅田顕選手が運営していた育成チームや、日本のトッププロトライアスリートをサポート。2001年に独立してつくばでショップ兼工房を開店しました。製造するカーボン&クロモリラグ接着フレームのプロジェクトMは、スケルトンやフレームの剛性などフルオーダできます。鋼のようなシャキシャキした心地のいい乗り味を実現する、高弾性のカーボン繊維を採用したフレーム専用設計の剛性の違う何種類かのチューブから、オーナーの体力や走りに合わせてチューブが選ばれ、1台1台設計したスケルトンに合わせて加工されます。スケルトンの自由度のキーとなるのが手作りのクロモリラグです。

 

清志郎さんは前三角もシートステーもチェーンステーもカーボン素材を選択しました。フロントフォークはタイムのアバンスティッフでした。ヘッド小物はタイムのマイクロセットで、圧縮小物を省いて軽量化しました。ハンドルバーはステムと一体デザインのチネリのRAMでした。フルオーダーですからもちろんカラーも注文できます。カラーはイギリスのアンプメーカーのオレンジのコーポレートカラーの特別なオレンジ色です。アンプの本体の一部を塗装工場へ色見本として送って、ハンドルやフレームやコラムスペーサーをオレンジに塗ってもらいました。

 

バイクは6、4kgで仕上がり、ブランド公認でオレンジ号とネーミングされた。ホイールは風や勾配に合わせて選べるようにハイペロンと、ボーラの50mmを用意した。ワイドスプロケットを採用、コンパクトドライブのカーボンクランクの組み合わせです。オレンジ号でキューバの25%を超える激坂を走った。「地球はすごいね!、もっと軽いギヤや、上りで前に出るフレームが欲しい」と、作ったのがオレンジ2号だ。ではでは。