クマさんのバイク専科

鈴木選手はブリヂストンを背負って走っていたな!

日本のロードレースの実業団チームがいくつかあるが、松永店長も走っていた宮田、ブリヂストン、シマノが印象に残っている。ロードレースは不思議なレースで、インディビデュアル・マスドスタート・ロードレースという。個人の順位を争う、集団でスタートする、ロードレースというわけだ。個人の順位を争うのだから、チームなんて必要ないだろうと思うのだが、1チーム5人から8人で構成されて、出場しているのだ。全日本選手権は日本ランキングの上位選手、出場権のかかったレースでの順位などで出場権が与えられて、出場メンバーが決まる。

 

ロードレースは、個人の力での勝利や順位を競ったりする面と、チームメンバーがエースと思われる選手のためにアシストするという面もあって、個人の成績だけど、チームのメンバーや監督の働きの成果という面もある複雑な要素がレース展開に絡んでいる。チームのエースは、メンバーの中で最も力のある選手のことだ。ロードレースが150kmとすれば、最初の1kmからスピードを上げて、逃げのきっかけを作ろうとする選手がいる。そのまさかをやってのけたのが全盛期の三浦選手だった。するすると集団を抜け出して、そのまま逃げ切ってしまったことがある。

 

当時の最強チームの宮田には、レースに臨んでエースは誰という決まりごとがなかったという。最初に逃げを決めた選手をチームがサポートするというのが唯一の決め事だったという。だから、自分が勝ちたいと、三浦選手は1周目から逃げたのだ。チーム内の決め事だから、高橋選手も森選手も、アシストに回るのだ。追い上げようとする選手の後ろにピタッとついて走ったり、集団で追い上げそうなら、集団に混ざって先頭交代のリズムを微妙に乱したり、追走集団の先頭に出て、スピードをコントロールして、三浦選手との差がなるべく縮まらないようにする。エースの風圧を引き受けて守っていくのとは違うアシストだが、確かに宮田はチームで戦って成績を出していた。

 

高橋選手は唯一175mmクランクをブン回せる選手で巡航速度の高さは日本一だったし、森選手だって切れ味鋭い走りで全日本レベ

ルのレースを優勝する力と、レース展開の読みのできる選手だった。

宮田のチームミーティングでは常に夢が語られていた。お酒の好きだった高橋選手は、先輩の森さんに「松っちゃん節制しないと勝てないぞ」と叱られていた。茅ヶ崎の宮田の部室にはミロワールドシクリズムやガゼッタデロスポルトが置かれていて、ヨーロッパのロードレースを意識していたのだ。積極的に動くと負ける、動くと負けというレースでは、選手の実力比べ的な要素が少ない。

 

日本のロードレースのように、後方待機型で終盤のチャンスを待つやり方を止めて、勝負どころを自分たちで作る、積極的な、ああゆう走りを目指そうということが意識として芽生え始めたのだ。ヨーロッパで通用する選手を作るとか、それまでの日本のロードレースの常識を越えて、積極的な走りを目指し始めたのだ。世界選手権のロードや、アジア選手権のロードレースやチームタイムトライアルの経験や、アマチュアのツールドフランスのツールドアブニールなどの国際レース経験が彼らの目覚めさせたのだ。まだ市川選手がヨーロッパのプロチームと契約する前の話だ。

 

彼らのライバルだったのがブリヂストンのエースの鈴木選手だった。

実業団チームの中で最強で、世界戦のロードレースや、オリンピックのロードレースの日本代表を輩出している名門チームだ。それだけに鈴木選手はプレッシャーを感じて走っていたはずだ。日本選手権はもちろんだが、ソウルオリンピックの代表として完走している。折ったことがある方の鎖骨を守るために、無意識に顎を寄せて、首を傾げて走る姿が印象に残っている。レース展開の読みは確かで、決して決定的な逃げの展開を許さない。強力な宮田のトリプルエースに対して、単独で挑んでいた。あれだけ嫌がられていたんだから、本当に強かったんだろう。

 

僕は雑誌記者としてレースを外から見ているから、全体の展開とかは見ているけど、レース後に選手にあの時どうだったのと聞いてみると、思わぬことを聞くこともある。本心なのか、嘘を言っているのかわからない。でも、同じことをライバルに聞いてみると、中でどんな動きがあったのか、どういう思惑で頑張っていたのかが少し見えてくる。というわけで、勝った選手にも、負けた選手にも、アシストしていた選手にも、とにかく嫌がられるくらい聞きに行った。本音を言ってくれる選手もいるし、フィルターやバイアスがかっ勝ったコメントをする選手もいた。鈴木選手は、やや福島弁が残っていて、誠実にその日の展開を語ってくれる選手で、この人、レース展開の記憶がすごいし、読みが深いなーという話をしてくれる。

 

僕は、第一回のツールド北海道を忘れない。三浦選手はシマノに、高橋選手はエプソンに、森選手はニチナオ・シディ・カンパニョーロへ移籍していた。日本で初の公道ステージレースだ。竹下総理のお声がかりでの開催という。もちろんブリヂストンも参加しているし海外チームも招待されている。僕は森選手にメカニックを頼まれてこの期間だけ雇われた。レースが始まってみると、ブリヂストンの鈴木選手がリーダージャージを獲得、やっぱり強い。シマノ、エプソン、ニチナオ・シディ・カンパニョーロとの4つ萌えになった。元宮田の3人は協調体制で戦い始めた。厳しい山岳ステージがないので、逃げが決まらず秒差の勝負になった。

 

最終ステージで逆転が起こるかという日に、先頭グループは元宮田グループと、鈴木選手の戦いになった、ゴール手前はスクラッチのようなゴールスプリントになった。毎ステージ完全にリーダージャージを着る鈴木選手包囲網が敷かれていた。ブリヂストンの選手のアシストが中盤までに力尽きた。ものすごい砂埃の中でエース達のスプリントが始まり、高橋選手が総合優勝した。僕はライバルチームのメカニックだったけど、ものすごいプレッシャーを受けて毎日走る、鈴木選手の見事な走りに心から感動した。ゴール後、座り込んで頭を抱えて、涙をためて、メンバーやスタッフに謝っている鈴木選手に、ライバルチームでも、雑誌記者でもなく、レースに立ち会った人間として、すごかった、かっこよかったと声をかけてしまった。

 

チームを背負っている責任感も、プライドもあって、ロ―ドレースで勝つことに情熱を燃やして、楽しんでいるな〜、と思った。オリンピアンは引退してブリヂストンサイクルのスポーツバイク部門のスタッフとして働いている。実業団チームとは事実上のプロチームで、活動費だけで、年間8000万円から2億円くらいで運営されている。午前中は仕事をして、午後がトレーニングというのが一般的な選手生活で、アマチュアにカテゴライズされていた。残念ながら、ロードレースの本場へ打って出るという実業団チームは、当時はなかった。

 

ブリヂストンチームが、フランス人のビビエ監督を雇って海外遠征したくらいで、その中に浅田選手がいて、海外で走る場所を得るために、プロへ転向して、21歳で日本チャンピオンになり、90年の日本での世界選に出て、ルッスセディコ、ユーロテルサムロ、カタバナコルべイユエッソンと契約して28歳まで走っていた。大門選手は引退後に日本舗道のスポンサードで、海外プロチームとジョイントして日本人選手とスタッフを送り込んでいる。その浅田選手が引退後にブリヂストンアンカーの監督になって、サポートスタッフと選手で、チームとしてヨーロッパの長期遠征を実施するようになり、他の実業団チームも海外遠征するようになる。ではでは。