クマさんのバイク専科

ガッハッハ桑原さん逝く!、涙・しかない

ガッハッハ桑原こと桑原伸光さんは遅刻の常習者だった。スポンサーを紹介してくれるというので、浅田顕選手を連れて、指定された場所と時間に合わせてクルマで行くと、相手先のヘッドスタッフが事務所で待っていてくれたのに、紹介者であるクワさんが来ない。約束した時間から2時間経っても来ない。携帯へ電話をかけても出ない。まったくここへ来る気配がない。約束の日時と時間を忘れてしまっているのかも。大雑把な感じもあるし、そうなのかも知れない、それが思い当たるふしもある。

 

ところがヘッドスタッフ達は彼の遅刻を驚きもしない。あいつが時間通りにくるわけないだろ、ってな感じなのだ。クワさんがこの小さな会社のどういうポジションなのかもまったく分からないまま、プロフィールの書類を見せながら、大汗をかきながら、ヨーロッパでプロとして走っている浅田顕選手のスポンサーになる意義とか、メリットとか、ツールドフランスへ日本人選手を送り込みたい、というような、個人的な思いの話をしているうちに、4時間ぐらいたってやっと来て、「どうだった?」、だって。社長はいくらいるんだと単刀直入に聞いてきた。正直なところを話すと。「いいよ!」とその場でこの話が決まった。

 

それからも大変だった。クワさんとミラノで会うことになっていた。ミラノフィエラというイタリアのサイクル&モーターサイクルの新製品発表展示会に一緒に行くことになっていた。少し前に2人でミラノ入りして、コロンブス、チネリ、グランチクリズモ、グエルチョッティ、カステリ、ビィットーレジャン二、デローザ、カンパニョーロ、FIR 、ピレリ(クレメン)、ペゼンティにコンタクトを取って、取材の日時を決めて許可を受けていた。

 

北ミラノ駅前のパルパドマスという、古〜いビルの3階と4階にあるイタリア語しかしゃべれない老夫婦がやっているペンションを、クワさんに指定されてトランク1個を持って転がり込んだ。本当にこのビルに宿屋があるの?という古い作りだ。木の箱みたいなエレベーターがあって、ドアは腰の位置に木の棒が一本きり、外側の金網のドアを締めて、階のボタンを押すと、ガタピシとゆっくりゆっくり上って行く。昔の映画に出てくるようなエレベーターだった。

 

木の箱の底が抜けるんじゃないかと思うほどの作りだ。フロントは真っ暗い中にあった。パスポートを見せようとするといらないという、クレジットカードだけでOKだった。「日本人だろ」と言っているらしい。水がサービスで付いているのだ、コンガーサかセンツァガーサかと聞かれる。炭酸ガス無しの水を頼むと720ml入りのボトルを手渡される。それを持ってオヤジさんに付いていく、2つの大きなベッドが置かれ、真っ白な4本足付きの白いホーロー引きの風呂桶&シャワーがある広い部屋へ案内された。

 

到着の時間は分からないが、クワさんとは今日この宿で合流する約束になっている。オヤジさんに部屋を案内されていると、イタリア語で変な話をし始めた。「クワさんが今日は来ない」と言っているらしい。イタリア語を話せないクワさんが、イタリア語しか話せないオヤジさんへ国際電話をかけてきたらしい。「ここに泊まって待っていてくれ」という伝言だった。2日たってもクワさんはやって来ない。取材の日時は迫ってきている。独自にイタリアの取材をスタートする覚悟は決めた。

 

1日目の朝の食事は1階のバールで,いっぱい並べられているお惣菜のトレーを指差して、これ、これとやって1プレートに盛ってもらい、カフェカプチーノ・グランデと言えばたっぷりの朝ご飯が食べられた。ここのお惣菜は種類が多くて美味しくて、すっかりこのバールが気に入ってしまった。お昼ご飯は路地に海鮮食堂があって、そこでバケツ一杯のズッパデネッロ(カラス貝のスープ)と、生スパゲティのペスカトーレトマトソースにパンを頼んで、またまた腹一杯になれた。

 

その海鮮食堂に夜も行って、そこで一人で夕食を食べていた日本人らしき人がいて、「イタリアで何をしているの」と声をかけられて名刺交換して知り合ったのが、インダストリアルデザイン工房のピニンファリナで日本人デザイナーとして活動していた人で、日本のメーカーでカーデザイナーをやって、ドイツのメーカーでもデザイナーとして働き、後にピニンファリナへ移って、そこで認められてフェラーリのスポーツカーをチーフデザイナーとしてデザインした人だった。

 

そんな食に恵まれた生活をしていると、つい気が緩みがちだが、泥棒とかさんざっぱら脅されていたから、妙に緊張はして歩いていた。でも、ここは北イタリア周辺の取材の拠点としては便利だし、レンタカーは路上駐車しっ放しで大丈夫だし。ペンションの窓から北ミラノ駅の周辺を1時間以上眺めていても飽きません。適度な都会で心地いい場所なので、エレベーターで1階に降りて、駅周辺の色々なお店を見て歩きました。

 

取材も始めました。住所を頼りに、タクシーの運転手にメモを見せて、ミラノ市内にあったヴィットーレジャン二のショップ兼事務所を訪ねた。憧れのウールジャージのメーカーだ。工房は郊外にあって一緒にスタッフと移動することになった。無事?、1軒目の取材は終わった。元カステリの社長の奥さんだったファッティニさんが経営していた。次はミラノ市内のグランチクリズモだ。チネリのアンテナショップだ。そして、ミラノ郊外にあったチネリの古い工房にも行った。工房とスチールフレームの生産ラインは確かにあった。

 

チネリ・レザーのレザーブルーにペインとされたフレームが10本近く、スーパーコルサも10本以上工房のフックにかけられていた。でも、実際にスチールフレームやステムを作っている気配はない。日本人の団体観光客が立寄った時だけ、ショップで働いていたスタッフが、ブルーの作業着を着て、フレーム製作の作業をしていることを装っている。もうこの時代にはスーパーコルサの生産は、アジアに生産拠点に移していたらしい。レーザーシリーズのみデザインや生産をイタリアのアンドレア・ペゼンティの支援工房に任せていたのだ。

 

次はアンドレア・ペゼンティの工房の訪問がある、工房のあるロマーノへレンタカーで高速道路を利用して1時間くらい移動した。住所を頼りにロマーノ市町外れにある倉庫街の工房へたどり付いた。厳重な鉄製の柵に囲まれていて、中には真っ黒ででかいドーベルマンが歩いていた。うかつに柵のドアを開けて入れない。インターホンのボタンを押すとまったくの初対面のアンドレアが出て来て、ドーベルマンを追っ払って、ドアを開けて工房内の事務所へ招き入れてくれた。訪問することは分かっていてくれたみたいだが、時間にぴったりだったことに驚いている感じだ。

 

「ミツ(桑原伸光)から電話があった、南アフリカの病院からだった、入国のために予防注射を複数して倒れている」というのだ。ミラノ直行のチケットがとれず、明日ナポリで、明後日にはロマーノに着くというのだ。クワさんとの初めての海外取材旅行は国際的な4日の遅刻で始まったのだ。工房内をまず見せてもらうことになった。フレームの溶接をする縦型の治具や大きな定盤が数台置かれているフロア、塗装するチャンバーや塗装を熱処理する炉、もっとも興味深かったのはストックヤードだった。

 

イタリアナショナルチームのチームロードタイムトライアルで使い優勝した、ダウンチューブにイタリアのロゴの入った、チネリ・レーザーが数台置かれていたのだ。コルサレコード仕様でブレーキはデルタがフォークと、チェーンステーのハンガー下に固定されていた。間違いなくこの工房でアンドレアが製作指揮して2人の腕っこきのビルダーによって生産されているのだ。工房を一通り見せてもらって、工房の壁に備え付けられているエスプレッソマシンでコーヒーを飲ませてもらった。

 

事務所に戻るとサイクルスポーツ誌をめくって見始めた。山と渓谷社のスポーツバイシクルのグレリスのロードやMTBの試乗特集を見つけて、ボクが試乗している写真を見つけて,お前か?、と聞かれた。1000mTTのタイムはどれくらいだと聞かれたので、ベストタイムは1分10秒を少し切るくらいと答えた。アンドレアは自分のプロフィールを語り始めた。海軍に在籍していたが、工業デザインの勉強がしたくて専門学校に通ったこともあるという。自転車競技の経験はロードレースではなく、ピストレースで1000mTTやスプリントが得意種目だったそうだ。

 

もうすぐミラノショーだから、その展示用のチネリ・レザーレボリューションを明日から作るという。今からで間に合うのか?。そんな話しの中でミラノショーで印象的だったバイクの話になると盛り上がった。気付かなかったのだがどうもアンドレアがデザインしたバイクの話をしていたらしい。後ろの大きな金庫のドアを開けて円く巻かれた設計図を取り出してきた。あれもこれも、話題に出ていたフレームの設計図だった。目の前の人がデザインや製作を担当していたのだ。

 

ロマーノのホテルは後にロードプロチームのイタリアの拠点になった場所だ。レストランも付いていて料理は美味しい。部屋も清潔でシャワー付きだ。翌日早く起きて工房へ向かう。昨日取材したチネリのマネージャーが工房に来て、レーザーエボリューションの製作行程に立ち合って撮影できる。散々レーザーのフィンのデザインの秘密を教えてもらっていたから、コロンブスのマックスだと思うが、フォーンタイプの太い原管から切り出されたチューブが、大きな定盤の上に置かれていた。

 

アンドレアとマネージャーが2人のフレームビルダーと一緒に定盤の前に立って激論が始まった。大きな声だった、最初は喧嘩してるのかと思ったほどだ。顔を真っ赤にしてハンガー近くのフィンのラインを指差して、ああでもない、こうでもないとやり合っているのだ。鉄板を取り出してきて自分のイメージ通りにアンドレア自身が切り始めた。1番職人がフィンの位置に当てて、マネージャーもOK を出す。そういったミーティングを重ねてレーザーエボリューションが形になって行く。イタリア滞在4日目、そんな撮影をしているところにクワさんがやってきた。そういう人なんだよな。

 

クワさんは、同い年の親友といえる地球上に存在する貴重な一人。そのガッハッハ桑原さんが突然、亡くなってしまった。まったくもって信じられない、信じたくない。この人のことを思い出して書いているだけで涙が出てくる。世話になったり世話したりの仲だった。色々なことが駆け巡り過ぎて何が何だか分からなくなる。今は、彼が貿易屋さんで、ボクが今だに自転車業界にいるから、歩んでいる道はまったく離れてしまったけど、古くからの親友に変わりはない。

 

クワさんとの出会いは八丁堀の八重洲出版のビルの4階だった。入り口のドアは開いていて、テーブルに仕事のレイアウト用紙を広げて、原稿を鉛筆で手書きしていた。締め切り近くで必死で原稿用紙と向き合っていた。後ろからスタスタ誰かが歩いて来る気配は分かっていた。それでも、振り向けないほどに原稿書きに集中していた。声をかける隙もないほどのオーラを背中から発していたはずだった。スタスタはどんどん近づいてきた。一瞬、キャッチーな小見出しのいい決め文句がひらめいた。そのひらめきを書き止めておこうと鉛筆を動かした瞬間だった。

 

ドカーンと背中を叩かれた、それはラグビーで鍛えた体でも尋常な力じゃなかった。瞬間的に振り向いて相手の姿を見ると、180cm以上ある筋肉質の大男が立っていた。チリチリの髪の毛、真っ黒に日焼けした顔には口ヒゲがあり、まったく見覚えがないヤツだった。何するんだ、という勢いと言うより、こりゃ危ないヤツなんじゃないかと、危機感を感じて素早くイスから立ち上がった。この見知らぬ怪しげな口ひげオヤジは「俺、お前を知ってるよ!、藤下だろ」と大声で言った。ボクは心の中で「あなたをまったく知らないんですけど」。

 

その困惑した表情を察したのか「オー、悪い悪い、俺は桑原、今度イタリアからグレリスという自転車を輸入するんだ、広告を出したいんだけどどうすればいい、自転車あるから試乗して雑誌で紹介してくれる?」というのである。名刺を受け取るとサイクルショップのスタッフという肩書きだった。チネリのレザーの製作を担当していたアンドレア・ペゼンティを取材先として紹介してくれたり、商品の買い付けに一緒にドイツやスイスやイタリアをクルマで一緒に旅した仲間でもあり、その後の日本初のUCI登録のプロロードチームのマネージャーをやっていたころ、イタリアのレース活動の拠点を紹介してくれたこともあった。

 

ヨーロッパのプロロードチームに所属して、プロとして走っていた、浅田顕選手の個人スポンサーを紹介してくれたり、彼が作った育成チームの運営費を調達してくれたメンバーのひとりだ。日本人のロードレーサーは直接関節的に、50人以上が世話になっているはず。クワさんや相棒だった坂間さんに、日本人ロードレーサーは、足を向けて眠れないほどの存在なのだ。浅田監督を通じて、間接的には育成チームのトライアウトを受けた新城選手も別府選手もサポートを受けていたことになる。フレームビルダー松永一治のイタリアの工房行きのきっかけも作ってくれた。

 

クワさんの突破力の凄まじさはどこから来ていたのか、今だにホントのところは分からない。日本人としては肉体的には恵まれていた。語学力もあった。でも、突破力と仕事を着実に進めるというのはまるで違うこと。大穴を開けたものの、利益を生み出すまで、着実に仕事を進めるタイプではなかったことも事実。周りのサポートスタッフにも、飛び込みで初めて会った相手先のヘッドスタッフにも恵まれた。これはクワさんの人徳と言えるだろう。まさにクワさんは天真爛漫、その人徳こそ、世界の危険地帯を股にかけたビジネスの突破力の正体そのものだったのかも知れない。

 

イタリア語をしゃべれない日本人を相手に、一儲けしてやろうというイタリア人も、コイツは騙せない、コイツのために何とかしなくちゃと思わせるのだろう。南アフリカ、クエート、フィリピン、インドネシア、マレーシア、ベトナム,イタリアと神出鬼没、何を本業としているのか分からない人だった。自転車好きであり、スポーツ好きであった。この人の「ガッハッハ」を側で聞いたひとは多いだろう。大ボラを吹き、接した人は、そんな印象を持っている人もいると思うが、けして神経は大雑把ではない、その正体は、気にしいで寂しがり屋なのだ、ボクは知っている。

 

今のボクは、この人がいたおかげなのだと、はっきり言える一人だ。ありがとう桑原さん。今日は泣くしかないな・・・・・。日曜日、ヨーロッパから帰国した浅田監督から電話が入った、移動中だった彼の携帯にクワさんが亡くなったことを電話をしていたのだ。今、帰国したばかりという。もちろんクワさんの突然の死に驚いていた。お通夜かお葬式には行くという。ボクも今夜、喪服を用意して辻堂で行われるお葬式へ行くことにする。ありがとうクワさん。ではでは。