クマさんのバイク専科

キューバはもう変わったかな!?

 

アメリカ合衆国のフロリダ半島にもっとも近い共産主義国でカストロの率いるキューバは、ジョン・F・ケネディ大統領の時代、ソビエト製の核ミサイルのキューバへの持ち込みを画策した海上輸送を、アメリカが海軍が海上封鎖して持ち込みを防いで以降、長く経済封鎖を受けていました。だから、工業製品のクルマや日用品や食料や薬品、資源の輸入が自由にできないほか、アメリカからダイレクトにキューバへ乗り入れるフライトはそれ以降ありませんでした。

 

南国のキューバは観光とサトウキビなどの農業くらいしか資源の無い国で、アメリカやヨーロッパの人々のリゾート地でしたが、ビザ発給が必要になるなどの入国の手続きが面倒で観光客も減少して、経済封鎖を受けたまま独立国として過ごして来ました。もちろん捨てる神あれば拾う神ありで、「アメリカの敵は今日の友」と言うわけで、当初はアメリカに冷戦で対立していたソビエトが強力に資源も武器も支援していました。その名残りの不気味な建物が首都の郊外の丘の上に建っていました。ソビエト大使館と紹介されたビルは要塞のようで、国会議事堂を逆さにしたようなコンクリートの建物がそびえ立ち、その上には遠距離通信用か通信傍受のアンテナが無数に生えていて、まるで逆さ電気クラゲみたいでした。

 

そのソビエトが倒壊して混乱すると支援が途絶え、今度は同じ共産主義革命して改革開放で経済大国になりつつあった中国が影響力を高めるために、石油などの資源を供給してキューバを助けましたが、それも、あまり直接的なメリットが無いと、中国は腰の引けた支援の姿勢になって、いよいよキューバは孤立して困りました。加齢とともに病気になったカストロが事実上引退していて、革命後の共産主義の国を、彼の弟がキューバを仕切っています。

 

キューバは島国で日本に似ている縦に長い島で、カストロやゲバラが率いた革命軍が主体になって、革命政府が仕切っている共産主義国でした。経済封鎖を受けて以来、経済は破綻気味と聞いていましたが、西欧風の町並みが残されていて、その通りに面した窓には、国内生産が無いガラスはなく、ベニア板がはられて荒廃していました。それでも、不思議に共産国独特のソビエト、東ドイツ、中国の不気味さが無いのに驚きました。この国の国民の御陽気な気質なのでしょうか。

 

島の端から端まで取材したり、ツールドキューバというロードレースに行ったことがあるけど、観光客のビザ以上に取材用の滞在ビザ取得にやたらに時間がかかりました。メキシコ経由で汚い古い飛行機で数時間飛んで、首都ハバナの空港に着いて、イミグレーションで機材の搬入でもめて、キューバ政府観光局発行の取材許可証や招待状を見せても、無線機が取り上げられたり入国そのものが大変でした。取材を始める前に、政府広報室に日本へ送られてきた取材許可証に、局長のサインを貰いにキューバ政府が指定してきたガイドと一緒に行きました。

 

首都から少し離れた都市に広報室はあり、現地時間で10時、約束した日時と時間にオフィスを訪れると、広報局長の秘書が出てきて、今は局長がいないから書類にサインできないという。趣味が釣で、クルーザーでバラークーダを釣にいっていると言うのです。いつ帰るか分からないそうで、それが普通らしいです。もういいやと、サイン無しのまま取材をスタートすることにしました。ホテル、観光地、お土産屋さん、レストラン、農園、農民、バス、レンタカー、レンタルオートバイ、軍需施設や港の周り以外、どこでも問題なく取材はできました。国からは1日1人当たり、マックのバンズのようなパンが2個配給されるそうです。そのパンの受け渡し所がどの街にもありました。

 

キューバは西側の国すべてと仲が悪いわけではなく、ドイツのワーゲンの新車がうようよ走っていました。レンタカーもワーゲンの新車で、レンタルオートバイはカワサキやホンダが普通にありました。例のハバナの古いアメ車のタクシーは観光資源ですね。実際に国道を走っているのはソビエト製のラダやベンツやワーゲンやボルボやサーブのクルマでした。バスはトレーラー式の2連の超大型のモノが主要幹線だけですけど定期便が走っていました。普通サイズの50人乗りのバスは観光用のチャーター便だけだそうです。

 

細かい路線バスはなく、一般のひとはクルマにヒッチハイクで乗り合いが一般的だそうです。取材スタッフは現地ガイド、コーディネーター、マネージャー、タレント、カメラマン、音声さん、ボクの7人でしたが、取材車は正に50人乗りの観光バスで、小回りの効かないことおびただしい状況でしたから、途中の街で中型車のレンタカーを別に借りて機動性を高めました。バストレンタカーの連絡は工具箱の中に入れて置いて、取り上げを逃れた無線機で行いました。片側3車線の国道や田舎道を走りましたけど、運転マナーはまあまあでした。でも雨が降ると舗装路は凶暴化します.沖縄と一緒でアスファルトには石灰岩が砕かれて入っているので、路面がぬるぬる滑ります。

 

トレーラー式の路線バスが止まるときに、ブレーキをかけてもタイヤが滑って、くの字になって、バス停の分厚いコンクリートウオールに激突して止まっていました。だからバス停が待っている乗客の安全のために、こう言う構造になっていたんだと分かりました。ヘミングウェイの通ったというホテルのバーへ行こうと、ハバナ市内の要塞が見える海岸線を清志郎さんをオートバイの後ろへ乗せて走っていて、急にスコールが降って来て、前を走るバスがバス停の手前でブレーキングして、くの字になったバスに巻き込まれそうになった時はびびりました。

 

水は、水道からは飲めませんから、ブランド名を知っているミネラルウオーターをお土産もの屋さんで見つけると、大量に手に入れてキープしておき、お酒好きで、ここぞとばかりにモヒートを飲んでいる、水分補給をあまり気にしていないスタッフに配りました。気温が高いので脱水も困るし、お腹を壊されると大変ですからね。アメリカ、メキシコと移動してきて共産圏にはいって警戒していたけど、食べるものはまったく困りませんでした。ドライブインにはチョコレートもビスケットも、ラム酒もなんでもありました。そこにはアメリカやヨーロッパのリゾートに近い豊かさがありました。

 

ところが、道を一本隔てると、そこに働きにきている貧乏なひと達がこの国に同居いている不思議な状況でした。だけどキューバを旅すると、貧乏は貧乏だけど、ゆとりがあるというのか、豊かさって何だろうと思わされることが何度もありました。なんとも不思議な国でした。観光地のレストランやホテルの食堂も、肉、海鮮、パスタ、ライス、野菜など食材は豊でした。チェックインすると、ミールクーポンが渡されてランチもディナーもバイキング形式というところも多かったですね。そういえばホテルの予約のトラブルは日常らしく、30kmも40kmも先のホテルへの移動も2回ほどありました。

 

昔はアメリカのリゾート地だったので、建物は立派だし、温かいシャワーは浴びれるし、治安も問題なし。ただし、黒服の秘密警察みたいなひとがうようよしていることがあり、妙にガイドがビビるので、何かあるのでしょう。チェゲバラの肖像の前で撮影のときに、黒服に取り囲まれて撮影データのチェックを受けました。ところが、オバマ大統領の置き土産のような緊張緩和のパフォーマンスがあって、キューバとアメリカとの直接の行き来ができるようになったり、野球選手のメジャーリーグへの移籍が始まったり、経済封鎖が解除されたりするんだろうなと思っていたら、トランプ大統領が登場して、どう引っ掻き回すのかな。キューバがどう変化するのか、もう一度行ってみたいな。ではでは。