クマさんのバイク専科

デザイン大国イタリアが原点回帰するか?

フェラーリを作った国は、クルマにしても、生活品にしても、家具や着るものやカバンや靴など、思ったより街を歩くひとの服装は地味だけど、カッコいいデザインの宝庫です。そのなかには手作りの自転車工房、スミズーラ(オーダーメード)なども数多くありました。チネリはイタリアのミラノ郊外にあったコロンブスチューブやスチールラグなどのフレーム素材の卸屋さんでもありました。創始者はアイデアマンのチノ・チネリで、ビンディングペダルの原型、インターチェンジハブ、スチールのステムやハンドル。アルミ合金の1Aステム、R1ステム、アルミハンドルなどを製造していましたが、チノの晩年にはコロンブスのオーナーのアントニオ・コロンボにブランドを売却しました。

 

ミラノ郊外にあったチネリのお店と、レーザーやスーパーコルサの塗装の仕上がったフレームなどが壁に誇らしげに飾られていた工場は、売却されるすこし前から見学コースになっていて、ここでは製造されなくなっていました。後にレンガ作りの壁や門柱からホーロー引きの看板も外されて、ここは取り壊されました。ミラノ市内にあったチネリの直営アンテナショップだった、グランチクリズモというショップはコロンボが売却してオーナーが変わって営業しています。ミラノで最大のサイクルショップは、ミラノのサイクルパーツの卸屋さんの社長、パウロ・グエルチョッティの経営する本社近くにある直営ショップでしょう。グエルチョッティはシクロクロスのスポンサードでも知られています。

 

日本でチネリのロードバイクが有名になったのは、1964年の東京オリンピックでした。ビアンキ、レニャーノのイタリアメイドのロードバイクの中に、一段と完成度の高いミドルのイタリアンカットラグで組み上げられた、チネリのスーパーコルサが当時のお金で30万円くらい。大学生の初任給が1万円以下の時代で、1ドル360円時代の交換レートで、海外持ち出し金額に制限があったころ。日本の自転車関係者に注目されましたが、一般人に手が出る価格ではありません。70年代、80年代になって日本が豊かになってきた時にスポーツバイクの世界でチネリが一斉風靡します。チネリのハンドルやステムはイタリアンロードの定番のパーツになりました。

 

今もサイクルショップで販売されている復刻版のスーパーコルサが、50年前のチネリのカタログに載っています。まったく同じフォルムで完成していたわけです。フレームチューブはコロンブス、ラグはプレスのイタリアンカットラグ、ハンガーとフォーククラウンはロストワックス製、エンドはカンパニョーロのロードエンドでした。現在のスーパーコルサはほとんどのラグがロストワックス製で、手によるカットではなくなり、エンドも被せ式のストレートドロップアウトか、スロットを入れて差し込む構造のショートロードエンドになっています。ケーブル内蔵のバージョンもあります。

 

64年のモデルのスーパーコルサは、ラグ付きのロー付けフレームで、フォーククラウンやエンドの当たり面、シートステーなどにメッキが施されて、カンパニョーロのアルミ合金のレコードクランクや、ダウンチューブのバンド止めシフトレバーで、グランスポーツの縦型パンタグラフメカに、スライドシャフトのフロントメカで組み上げられて市販されていたのです。80年代のミラノ郊外のチネリのショップの繋がりの建物内には、昔のスチールステムの溶接行程や、スチールフレームを溶接している行程が残されていて、工場見学者のコースになっていました。

 

数年くらい前から、スーパーコルサや軽量チューブのウルトラフォコ採用のヌーボスーパーコルサ、ステンレスチューブのフレームなどは、カーボンフレームとは違い、イタリアの支援工房での製造に戻っていたようです。順次イタリーメイドへ回帰しているようです。チネリのスチール製のレーザーはローマーノのアンドレア・ペゼンティの契約工房で腕っこきの職人により製作されていましたが、ペゼンティが病気療養のために中断して、レーザーのデザインや製造を指揮したペゼンティが製作プロデュースで、カーボンフレームのレーザー・ミオへ移行しています。

 

イタリアデザインがメイドインイタリーだったころ、形も機能もいい頃合いの仕上がりも、安定供給とかコストとかも色々考えさせられますが。イタリアの工房で職人が製造すると、スチールのフレーム1本の価格が日本で30万円前後、軽量アルミとカーボンフォークの組み合せでも30万円から35万円という価格になり、一般に普及するレベルを越えていました。特別なひとのための持ち物を作る感が溢れていました。ところが、それでは老舗にはなれても、ビッグマネーを稼ぎ出すのは難しい。大量生産して消費してもらわないと、デザイナーズブランドがビッグビジネスへ結びつきません。

 

デザイン工房や製造ノウハウを持っているファクトリーを直営したり、イタリアに契約協力工場を持ったブランドも、人件費も安くクオリティを保ちながら大量生産できる拠点を求めてアジアや東欧の生産拠点を探しました。韓国や中国や台湾や日本のアジア地域や、ユーゴやブルガリアなどに製造拠点を移しました。スチールからアルミの時代は日本も製造拠点となっていましたが、人件費の高くなるのと同時に、アルミやカーボンがフレームの主役になると、台湾や中国へ製造拠点は移行して行きました。

 

技術力の高い日本が仕事を失って、台湾へ移行して、中国へ移っているという、時代時代で生産拠点をになう地域が移動して行く流れは経済や貿易の自由化が招いたものです。イタリアブランドで中国製、フランスブランドで中国製、中国製のナイキ、中国製のアディダスも普通な現象になりました。開発やデザインや素材選びがイタリアのブランド直営のラボで行われ、中国の工場に発注され、プロダクツプロトがラインで製造されて、ラボのクオリティチェックを受けて承認を受けて製造されるという流れです。アジアの技術者は手先が器用で、最初は形を真似ることに徹しましたが、イタリアで作られたマスターピース以上の仕上がりになっています。

 

でも、チャイナリスクがささやかれるようになっています。というわけで、色々な分野で、近頃イタリア回帰がささやかれ始めました。イタリアブランドが大量生産や低価格化のために、製造拠点を海外に求めたのは当然の流れだったのかもしれませんが、この40年で国内が空洞化しました。国内工場の閉鎖、職人が失職して、製造技術が衰退してしまいました。それでも、国内のファクトリーで細々と製造を続けていたひとびともいました。自転車の世界は支援工房と職人を守っていたのです。台湾や中国の人件費が上がり始めています。製造スケジュールやクオリティ管理、サイレントチェンジ、労働争議や知的財産権など、いわゆるチャイナリスクを考えると、ある程度の価格帯の製品は、イタリアに製造拠点を移した方がいいのではという、撤退の動きが出ています。

 

そんな動きを見せる、イタリアブランドのイタリアでのもの作り、イタリア回帰への追い風になればいいと、そういうデザイナーズブランドの新たな動きに注目したいと思います。ミラノ、ローマ、フィレンツェでイタリア回帰の動きを思考するひとびとが元気になっています。デザイン大国イタリアがイタリアであるために!、イタリア人の職人魂や歴史やノウハウは一旦消えかけました。製造拠点の復活のためには時間と大きなエネルギーが必要でしょうが、注目される動きです。イタリー製のビアンキやピナレロやデローザは今後あるかな〜。ではでは。